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キャリア・教育 #「非会社員」の知られざる稼ぎ方

伝説の怪奇漫画家が歩んできた退屈しない人生 73歳の今もなお新作の制作に意欲を燃やす

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  • 村田 らむ ライター、漫画家、カメラマン、イラストレーター
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日野さんの作品は、短編がほとんどだ。長編漫画もあったが、成功にはいたらなかった。本人も短編のほうが向いていると自覚している。

「アイデアに困ったことはなかったですね。むしろアイデアはいっぱいあって、いつも新しい作品を描きたくて仕方なかったですね。

アイデアの段階だと最高のイメージを思い浮かべるんです。でも実際形にすると、どうしてもそれよりは落ちてしまう。だから未完成は捨てて、すぐに次を描きたくなっちゃうんです。その繰り返しですね」

日野さんは1970年代にデビューしたが、1980年代に入り商業的にはかなり厳しくなった。

最後の作品になるはずだった『地獄変』

「雑誌での連載は減りました。描き下ろしの単行本の依頼はあって年2~3冊出していたんですが、単行本は連載での原稿料がないのでとても大変ですね。その頃は女房にも働いてもらってました。

そんな状態を10年続けて、『漫画家として必要とされていないなら、もういいかな?』と思うようになりました。まだ30代でしたし、やり直しもきくかとも思いました」

漫画家をやめるつもりで描いた作品が、1982年に発表された『地獄変』だった。

『地獄変』(ひばり書房)

『地獄変』は『地獄の子守唄』をより過激にしたような作品だった。漫画の最後では、作者が読者に対して斧を投げつけた。

「やめるつもりで書いたんですが、読み返してみたら『こんな程度のレベルの作品で満足してやめるわけにはいかないな』と思い直しました。その後も漫画を描き続けます」

1985年には、とあるビデオ映画作品の監督をすることになった。この作品では、実在の殺人事件との関連性を疑われ、スポーツ新聞などで過激な報道がなされた。

「まるで犯人扱いでしたね。テレビや新聞ではずいぶんひどい扱いをされました。実際に事件が収束した後に刑事に話を聞きに行ったんです。『犯人が本当に俺のビデオを見たか知りたい』って。結局、ビデオは見ていなかったんです。本当に犯人が自分の作品を見ていたなら、筆を折ろうと思ってましたから、ホッとしましたね。

でも、『なんであんな作品を作っちゃったのかな?』と今でも思い返します。若気の至りですね。『地獄変』と同じで、漫画をやめようと思って作っていました。もう1回読者に対して斧を投げてやるぞって……」

しかしビデオを撮り終わった後も、漫画を描くのはやめなかった。その頃から、ホラー雑誌が何冊か創刊されて、仕事が増えてきた。また日野さんと、水木しげるさんとの対談が実現し、世間でも話題になった。

「ずっと単行本の描き下ろしの仕事をしていたので、単発で来る30ページくらいの仕事は苦もなく描けました。描けば描くほど、それを見た出版社から仕事が来ました。40代になってからは来た仕事は一切断りませんでした」

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【2000年代に入り、日野さんはペンを止めた】

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