「悪口」を文豪が語るとこんなにも人間くさい 相手を鋭く刺したり、単に感情的だったり
日夏耿之介(ひなつこうのすけ)は馬鹿。あの詩は空腹の沿革の形象だ。
(42ページより)
《中略》中村光夫ーーこれは今大評判の批評家だ。然しみているがいい。「老獪な秀才」でしかないことがやがて分るから。尤も、老獪にしろ何にしろ、秀才さえもが珍しい当今文壇のことだから、表向きは、中村光夫を褒める方が賢明なことであるということ。
(45〜46ページより)
フランス語。「ツアラツストラ」を読む。なんと面白くない本だ。やっぱり独乙(ドイツ)人はバカだ。生の無意識を暴くことを面白がっている。創造的どころか。渋っ面的だ。かりに俺がこの本の凡(あら)ゆるページに同感だとしても猶、俺はこの本を軽蔑するだろう。何故ならば、生がおのづから知っていることを今更解明されたって、俺は何一つ享(う)けたことにはならぬ。そしてここに書かれてあるようなことは、生が無意識に体得してゐる時にだけ美であるので、意識に移した時何事でもない所のことだからだ。こんな本を書いた男が発狂したとなら、結構なことだ。ニイチェは、何物でもない。奢慢(本文ママ)な、強欲漢だ。
(46ページより)
感情をむき出しにしているからこその憎めなさ
ほかにも志賀直哉、夏目漱石、菊池寛、永井荷風ら、そうそうたる面々の悪口が本書には掲載されている。女性をめぐって絶交した谷崎潤一郎と佐藤春夫の書簡なども、なかなかに読み応えがある。
また注目に値するのが、大正期に腐敗や不正を暴き続けたジャーナリストとして知られる宮武外骨が発行した雑誌『スコブル』に掲載された文壇ゴシップだ。
いうまでもなく彼らはその悪口に、相手に対する批判的な、あるいはネガティブな思いを込めていたわけである。しかし傍観者としてそれらを読んでみると、ついほほ笑んでしまうような、不思議な親しみやすさを感じる。別の表現を用いるなら、憎めないのだ。
感情的な表現であるからこそ、悪口は必然的に人間くさくなるということなのかもしれない(もちろん、自分が日常生活の中でこういった言葉を投げかけられたとしたら、それはそれでたまったものではないのだが)。
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