甲子園悲劇の投手・大野倫が故郷で励む野球教育 46歳になった沖縄水産のエースはNPOの代表

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沖縄水産高校の当時の栽弘義監督(写真:ご家族提供)

3回戦まで勝ち進み、準々決勝の福岡代表柳川戦も6対4と僅差の勝利をものにした。この時期には、大野の速球は120㎞/h台まで落ちていた。変化球を交え何とか抑える大野をチームメイトが盛り立て、準決勝の鹿児島代表鹿児島実業戦はかろうじて7対6で逃げ切った。

決勝の相手は大阪代表の大阪桐蔭。とっくに限界を超えていた大野は「投手としてはこれが最後の試合になるだろう」とも思っていた。

沖縄水産は大阪桐蔭を5回表まで7対4でリードしていたが裏に6点を奪われ、8対13で敗れる。大野は夏の甲子園を1人で投げ切り、投球数は773球に上った。3回戦からは4連投で35イニング、546球を投げ抜いた。

監督の栽は大野に「よく頑張ったな」と声を掛けた。キャプテンの屋良景太は、沖縄に帰って閉会式のビデオを見ていて、グラウンドを行進する大野倫の右ひじが不自然な方向にねじ曲がっていることに気がついた。故障は知っていたが、いかに大野の右ひじの故障が深刻で、痛みに耐えて投げぬいていたかを身に染みて感じ、もっと大野を支えることができたのではと自分を悔いた。

大野は沖縄で検査を受けた。診断は「右肘の剥離骨折」。亀裂も入っており、軟骨も欠けていた。ビー玉くらいの骨片も浮いていた。医師からは「この肘の状態ではピッチャーは無理だろうね」と言われた。

大野の負傷が、甲子園の伝統を動かした

大野の甲子園決勝戦での負傷は、新聞でも大きく報道された。

高校時代の大野倫(写真:本人提供)

当時の日本高野連会長の牧野直隆はこれを深刻に受け止め、甲子園大会前に出場校投手の肩ひじの「メディカルチェック」を導入することを決定。試行期間を経て1994年から、春夏の甲子園に出場が決まった選手は、整形外科医などによるメディカルチェックを受けることとなった。

またこの年の春の甲子園から投手数の増加に対応するため、ベンチ入り人数は15人から16人に増えた。

甲子園大会でのメディカルチェックは、あくまで「甲子園大会期間中のケガ、故障を防ぐ」ことが目的ではあったが、各校の指導者は甲子園大会前に投手のノースロー期間を設けるなど、健康面に配慮するようになった。その面では一定の効果があったといえよう。

また、高校野球界に「選手の健康問題」が存在することを知らしめたことも大きかった。

牧野直隆は、慶應義塾大学時代から名内野手として知られ、社会人野球の監督としても功績があったが、日本野球の行き過ぎた精神論に対して深い憂慮を示していた。

「どうも日本は、ひとりの大黒柱が燃え尽きるまで投げぬくのが美学、というところから抜け出せない。一種の精神主義、まあカルチャーなんだろうけども、それでは投手は使い捨てになってしまう。
慶大時代、甲子園で活躍した素晴らしい資質の投手が入学してきた。が、彼は中学時代に肩やひじを酷使したことが原因で、投手として東京六大学の舞台に立つことはできなかった。高校生は育ち盛りだ。指導者の監督も一緒になって一時のヒロイズムで、未来ある素質をつぶしてはいけない」
牧野直隆の回顧録『ベースボールの力(毎日新聞社)』から
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