甲子園悲劇の投手・大野倫が故郷で励む野球教育 46歳になった沖縄水産のエースはNPOの代表

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現在の大野倫。故郷の沖縄県で「野球離れ」を食い止めるためのNPO法人を立ち上げている(筆者撮影)

40代以上の野球ファンは「大野倫」という野球選手を覚えておられるのではないか。1991年夏の甲子園、沖縄水産のエースとして決勝戦まで上り詰めたが、故障のために涙をのんだ。甲子園の悲劇のヒーローは巨人、ダイエーでプレーしたのち大学職員となり、このほど故郷の沖縄で「野球離れ」を食い止めるためにNPO法人を立ち上げた。

ひじの故障を隠して甲子園出場

大野倫は1973年4月3日、沖縄県うるま市に生まれた。いわゆるイチロー世代だ。沖縄水産高校に入学した当初は投手だった。1年生から有望視されていたが、最初に投げた練習試合で、初球を打者の頭部に当てた。

「その選手が救急車で運ばれたので、それがトラウマのようになって、マウンドに上がれなくなりました。投球練習は以後もしていましたが」

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2年生の1990年、沖縄水産は夏の甲子園で、決勝戦まで進出。0対1で天理高校に敗れ、涙をのむ。大野は5番右翼手として活躍。夏の甲子園が終わると、沖縄水産の栽弘義監督(当時)は大野をエースに指名する。

センバツ出場は逃したが、翌春には沖縄水産は、夏の甲子園の本命と目された。今年こそ沖縄に深紅の優勝旗を。県民の期待は高まった。大野も好調だったが、春先の熊本県招待試合でダブルヘッダーを2試合完投後、翌日練習時にボールを投げたとたんに右ひじから「ブチッ」という音が聞こえた。

右ひじを気にする高校時代の大野倫(写真:故 栽監督のご家族提供)

大野は「あ、やってしまった、ひじがぶっ飛んだ」と悟った。大野は連日200球、多い日には400球を投げていた。

ドクターストップがかかって甲子園出場の道が閉ざされることを恐れた大野は、栽弘義監督にもチームメイトにも打ち明けることなく、投球練習を回避して肩を温存した。

地方大会が始まり、沖縄水産は大野の不振もあって、1回戦は美里工に6対4で辛勝したが、以後は、沖縄水産の打線が爆発し、3回戦の久米島戦は16対3で大勝。準々決勝の与勝戦は7対0で7回コールド。準決勝は、強豪校の那覇商との対戦だった。

大野は意を決して監督の栽に「先生、ひじが痛いんです」と告白。栽は、大野に痛み止めの注射を打って投げさせた。注射の効き目は抜群で、ひじの痛みは完全に引いて、那覇商を5対1で下す。決勝戦の前にも注射を打って、豊見城南を6対2で下し、沖縄水産は2年連続の夏の甲子園出場を果たした。

大野は甲子園でも痛み止めの注射を打って投げるつもりだったが、監督の栽弘義は大野に「甲子園では痛くても工夫して投げなさい」と告げた。大野は「監督は僕の将来のことを案じてくれたんだと思います」と語る。

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