甲子園悲劇の投手・大野倫が故郷で励む野球教育 46歳になった沖縄水産のエースはNPOの代表

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牧野のこの志が、そのまま高野連に受け継がれていたら、今の「球数制限」の議論の中身も、大きく変わっていたかもしれない。

結果的に大野倫は「甲子園に医療ケアを導入する」きっかけを作った選手となった。

大野は甲子園の後、「1991年U18 日米韓三国親善高校野球」の代表に、星稜高校の松井秀喜らとともに選ばれたが、その壮行会で牧野直隆に「右ひじは大丈夫?」と声をかけられている。

予想どおり、大野はもう投げることはできなかった。九州共立大に進んだ大野は、外野手に転向。福岡六大学リーグで、1993年秋に本塁打王、新人賞。1994年秋に最優秀選手賞、首位打者、1995年春にも本塁打王。大学屈指の強打者となる。またアジア選手権や日米大学野球、ユニバーシアードの日本代表にも選ばれた。

1995年のドラフト5位で外野手として巨人に入団。1年目は2軍暮らしだったが、イースタン・リーグで196打数60安打2本塁打25打点、打率.306を記録。ジュニアオールスター戦にも選出された。

しかし当時の巨人には1995年に広沢克己、1997年に清原和博、石井浩郎が入団。松井秀喜、高橋由伸など生え抜きにも強打者がそろい、大野が力を発揮することはできなかった。

「1999年に現監督の原辰徳さんがコーチに就任されて、チャンスを与えてくださいました。でもそれに応えることができませんでした」

大野は2000年オフにトレードでダイエーホークスに移籍。2002年限りで引退した。

通算成績は24試合31打数5安打1本塁打2打点、打率.161に終わった。引退後は会社勤務を経て、母校の九州共立大学の沖縄駐在職員として勤務した。そのかたわら2010年に中学少年硬式野球のうるま東ボーイズを設立。指導者としても活動した。

沖縄県の「野球離れ」を食い止めるために立ち上がる

2017年、九州共立大学を退職した大野は「NPO法人野球未来.Ryukyu」を設立。理事長に就任した。

筆者は、沖縄はたびたび訪問しているが、子どもの数も多く、空き地で野球をする少年を見かけるなど、野球が盛んな土地柄だと思っていた。しかし、そうではないらしい。

大野倫と子どもたちの活動風景(写真:NPO法人野球未来. Ryukyu提供)
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