数学の学びにおじゃま虫となる「3つの迷信」 数学嫌いな子どもたちを生む考え方
大学教員41年間で数学科が25年間、教養課程が5年間、リベラルアーツ学群では12年間勤務したことになり、その間、膨大な入試の記述式答案を見てきた。
昔と比べて大きな変化を感じるのは、文字変数に具体的な数字を代入して答えを当てるマークシート式問題の裏技を、一般論を論じる記述式の数学答案に書いてしまうケースがしばしば見受けられるようになったことである。受験生は、このような奇妙な答案に点数は与えられないことがわかっていないようだ。
プロセスが間違っていても答えが合っていればよいのか
それどころか最近、昔の教え子で教員などの仕事に従事している者から信じられない報告を受けるようになった。それは、プロセスが完全に間違っているものの偶然に最後の答えだけ合っている答案に対して、「答えが合っているからマルでもいいのではないか」という“苦情”が寄せられることである。
おそらく、このような現象の背景には、社会全体で「プロセスはいい加減でも結果がすべて」という困った発想が広まったこともあるだろう。しかし、数学は答えを当てる教科だという迷信を過去のものにしない限り、奇妙な答案はなくならないと考える。
筆者は外国語が苦手であり、中国語・ドイツ語・ロシア語などは学んだことがない。しかし、それらの言語で書かれた数学の論文は辞書を用いながら読んだことはある。それが可能である理由は、記号と数式があったからである。ところが日本では、なぜか”記号と数式があるから数学は難しい”と信じて疑わない人たちが多数である。その原因は、大きく分けて2つあると考える。
1つは、恥ずかしがって質問しないことである。車の助手席に乗っている人が、もしわからない道路標識を見て気になったらどうするだろうか。恐らく、運転者にその意味を尋ねるだろう。数学の記号も同じで、意味のわからない記号を見たら遠慮なく質問すればよいのである。それだけのことであるが、なぜか日本の学校では「その記号や数式の意味がわかりません」と堂々と先生に質問できない雰囲気がある。この雰囲気は打破しなくてはならないものであり、さまざまな立場から努力していく所存である。
もう1つは、記号や数式を多用する数学の書物の執筆者が、記号や数式の定義を省く傾向があることである。
最近、卒業生から手紙をもらい、「経済関係の本の前書きに、使用する数学は文系進学程度の高校数学であると書いてあります。しかし、本論の部分にある……や……は何でしょうか」という質問であった。それを見ると、偏微分や行列式が説明もなく書かれていた。
実は、似たような話はたまにある。記号や数式を扱う1人として、それらの意味はなるべく丁寧に書いていくことをともに心がけたい気持ちをもつ。
記号とは、見やすく誤解を与えない「言葉」である。また数式は、誤解を与えない厳格な「文章」である。このメリットを活かして、日本の数学文化を高めていきたいものである。
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