人の絶望的な状況はどこかの分岐点で回復したり、立ち直ったりするのが一般的だ。しかし、甲斐さんの最低空飛行が終わることはなかった。
「あれだけ閉じ込められて勉強したのに、公立高校は不合格。それですごく偏差値の低い私立高校に進学して、母親は本当に怒りました。
私立の制服で近所を歩かれると恥ずかしいって怒鳴って、明るい間に自宅に帰ることを禁止されました。必ず部活に入って、誰もいない夜に帰ってこいって。朝も早く登校して、私立の制服を誰にも見られるな、みたいなことを厳しく言われた」
母親に部活の最も厳しい吹奏楽部入部を強制されて、楽器未経験者で入部した。毎日の練習に朝練もあり、とにかく部活漬けという生活になった。
「部活では最初から最後まで迷惑なお荷物でした。未経験者は迷惑って何度言われたかわからないし、本当に1日でも早くやめたかった。けど、母親が絶対に退部は許さないって。仕方なく3年間続けました。高校でも友達はできなくて、誰かと遊んだ、楽しく会話したみたいなことはまったくありませんでした」
准看護師になってもイジメられ職場を転々とした
県外の短期大学に進学。卒業の頃、まだバブル期で就職は売り手市場だった。信用金庫や農協など、自分なりに就職活動は頑張った。しかし、どこからも内定をもらうことはなかった。フリーターになって最低賃金のコンビニや飲食店員、非正規事務職などをして細々と働いた。月収15万円を超えたことは一度もなかった。
「地元には友達は誰もいないし、家族からの暴力もあるし、逃げたいっていつも思っていました。それで25歳のときに准看護学校に入ったんです。なんとか資格を取ることができた。それで27歳のとき、東京の病院に受かって上京しました」
過酷な勤務を強いられる病院は、女社会であり、人間関係は荒れがちだ。さらに資格社会なので准看護師というだけで厳しい扱いとなり、子どもの頃のようにイジメられた。人間関係の難しい大きな病院ではなく、小さなクリニック、クリニックではなく介護施設と、イジメられるたびに解雇になったり、自主退社して職場を転々とした。
30歳を超えた頃から、正規では雇用されなくなった。最終的に介護施設の非正規を転々とした。収入は手取り13万~18万円程度で、20年間で余裕のある生活は経験したことがない。イジメられることのない平穏な職場も経験がなく、20年間ずっと低賃金で、嫌がらせや暴言を浴びる毎日だという。
「ツラいといえば、ツラい。けど、ツラくない経験はしたことないので、慣れている。でも1カ所で仕事を続けることがどうしてもできません。40歳を過ぎてからは本当にブラックなところしか採用されない。ずっと貧乏だし、孤独だし、ただただ生きているだけって毎日です」
家賃4万5000円に、節約に節約を重ねる最低限の生活でも生活費は月8万円は必要である。32歳のときに仕事が決まらなくて、経済的に破綻した。このままでは餓死をしてしまうと、役所に相談をしたら生活保護が受給できた。本当に助かった、と思った。
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