パチンコに狂う父から20歳で逃げた息子の告白 自殺未遂した際の入院費も息子が負担した

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そこへ起きたのが、東日本大震災です。父親の自殺未遂から3カ月ほど経った頃でした。自宅はかろうじて津波を免れましたが、役場に勤める瑛太さんは仕事に忙殺されていきます。それまで転職を考えていましたが、とてもそれどころではなくなりました。

母親が亡くなったのは2012年の2月。前年の10月に「余命1年」と宣告され、県立病院に転院したのですが、それからわずか4カ月でした。

母親が亡くなった翌月、瑛太さんは家を出ます。きっかけとなったのは、テレビを観ていた父親の言葉でした。

「1年後の3.11、というのはやっぱり大きかったと思います。役場の仕事も年度末で忙しくなり、残業で遅く帰る日が続いて。ただ、それは自分にとってはよかったんですよ。この時期、震災から1年ということで、テレビや新聞、雑誌でもいろいろ特集をやっていたんですが、それを見たくなかった。思い返してしまうから。

ところが一度、家に帰ったら父親がちょうどテレビを観ていて、地元でいちばん被害が大きかった地区の話をやっていた。すると父親が、『ここで何人ぐらい死んだのや』と、平気な顔をして聞いてきたんですよ。

そんなの、普通に聞けるようなことじゃない。震災のときは入院していて状況を呑み込めていなかったとしても、もう退院して半年は経っているわけです。『こんな人間といつまでも同居していられない』と思い、家を出ました」

このまま父親と暮らしていたら自分の給料も使い尽くされてしまい、いつになっても自分の人生を送れないだろう――。そんな危機感もつねに抱えていました。

背中を押してくれた母の言葉

家を出て父親と決別することができたのは、母親の言葉のおかげもあるかもしれません。

「亡くなるひと月前くらいですかね、成人式があって、その後、見舞いに行ったんです。意識のあるうちの最後のひと言だったと思うんですけど、『私が駄目になったら、やりたいことをやりなさい』と言われたんですね。『ああ、母親はやっぱり、やりたいこともできなかったんだな。母親がやりたかったことも、自分がやりたかったことも、思い切り正々堂々とやればいいんだ』というふうに思ったんです」

家を出てからは父親からの金の無心もなくなり、年に一度、旅行にも行くようになりました。何度も行ったのは湘南。母親も瑛太さんもサザンオールスターズが好きで、余命を宣告されたとき『最後にどこか行きたいところに行こう』と相談していたのが湘南でした。

また家を出てからは「父親の目にさらされることなく生活できる」ようになり、気持ちにも少しゆとりが出てきたそう。

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