不登校→東大進学した男性が親に感謝するワケ 息子のために引っ越しもした
自分の学年よりもどんどん先に進んで、プラスとマイナスの計算を勉強している同級生もいるなか、僕は自学年の勉強よりもさかのぼって取り組んでいました。
それでも学ぶ速度は遅かったのですが、できなくてもいい。できなかったらできなかったで、来週また同じ課題に取り組めばいい。その学び方は、当時の僕に合っていたのだと思います。
自分のペースで学べることや、できないなりに丸がついたり、少しずつでも先に進んでいく感覚は非常にうれしいものでした。
「晃くんは、このまま地元の中学校に進むよりも、私立の中学校に進んで、自由にすごしたほうがいいと思います」。
両親は高学歴ではなく、ましてやそれまで中学受験など考えてもいませんでしたが、公文式の先生がそう言ってくれたことをきっかけに、小学校3年生の秋、母方の祖母の家がある名古屋市へ引っ越すことになりました。
ありがたかった環境の変化
親からは「中学受験と、祖母の面倒を見るための引っ越しだ」と聞いていましたが、のちに通った私立の中学校は家から片道1時間かかります。
祖母は叔父夫婦と暮らしていて、80代になった今も健康で元気です。母の手助けは不要でした。
親の真意は、学校に通えていない僕のために環境を変えることにあったのでしょう。僕はそう理解しており、そのときの親の決断には今も感謝しています。
転校先の学校の登校初日は運動会の日でした。職員室に行くと、担任の先生と体操服姿の学級委員長が待っていて、僕の手を引いて教室まで連れて行ってくれました。
思えば、前の学校でなじんでいないことを踏まえての配慮だったのかもしれません。おかげで僕は初日から意外なほどすんなりとクラスに溶け込むことができたのです。
運動会は競技を見ている時間が長いので、クラスメイトとうまく会話ができなくても、ごまかせたのも大きかったと思います。
奇跡とも言えるなめらかなスタートを切った僕は、公文式での勉強が功を奏し、転校先の学校で勉強ができる部類に入るというおまけまでつきました。
クラスメイトに「今度の転入生は頭がいい」「勉強を教えて!」と言われるようになると、いつしか教室に自分の居場所ができました。
視野が狭かったこともあるかもしれませんが、当時は勉強することが生き残る道だったのでしょう。その居場所を守りたいがために、さらに勉強しました。