では、私が土偶をどう見ているかと言えば、縄文人がイメージする「超自然的存在」の具現化ではないかと思っている。超自然的存在とは、いわゆる「目に見えない存在」ということであり、人によってはそれを「八百万の神様」という人もいるだろうし、「精霊」や「女神」という人もいる。研究者の中でもさまざまな表現があり、統一はされていない。
おおむね「善なるもの」の空気をまとっている
そう思うと、あの宇宙人のような遮光器土偶の造形も「あってもおかしくはない」という気持ちになる。集落の人々がイメージした見えない存在の具現化なのだとしたら「そうか、その集落の人にとって心を寄せるべき形があれだったのか……」となる。
だからだろうか。
土偶は摩訶不思議な造形や簡略化しすぎているもの、ジワジワと面白みが伝わるもの、「なんで? ねえ、なんでこうなるの?」と突っ込みたくなるもの、子どもの粘土遊びか?と思うようなものまでさまざまある。中には迫力満点で、グロテスクなものもある。きっとその集落にとってグロテスクな存在に頼らねばならない事情があったのだろう。
とはいえ、おおむね土偶は「善なるもの」の空気をまとっている。完全に主観であるが、多くの土偶からあふれる空気感はどれも温かなものだ。「人を呪うために作られたかもしれない」という人もいるが、私はそうは思わない。
一方、見れば見るほど訳がわからないのが、土器である。いわゆる生活必需品の深い鍋なのだが、地域や時期によって違いがあるとはいえ、どうして鍋にあんなにごちゃごちゃした模様を付けるのか。中には、蛇とかカエルとかイノシシとかをモチーフに、集落の神話が描かれているのだという人もいるし、模様は方言である、という人もいる。土器をじっと見ていると、どれもそんな気がしてくる。
土器に関わる研究(制作年代、模様、普及範囲、影響、使用方法など)は盛んに行われていて、これなくして考古学は何も語れない。語れないけれど、「なぜこの模様が必要だったのか」「この模様の意味するところはなんなのか」ということは残念ながら縄文人に聞くしかないのが現状である。
日常品をご機嫌に使うためにかなり大げさに装飾したとも言えるが、だとしたら、火焔型土器はどう考えても使いにくい。もっと合理的で使いやすいものでいいではないかと思うけれど、それは、現代人の感覚でしかない。彼らにとって、日常的な道具として使う以上の意味が土器にはあったのだ。それは時に、亡くなった幼児を入れて埋葬するための棺にもなったし、見えない存在に祈りを托す儀式に使われる道具にもなった。
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