土偶の見た目が「奇想天外」である深い理由 縄文人にとって土偶はどんな存在だったのか

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幼児を入れた土器は、母胎に見立てられたのだろうか。新たな命として再び母の身体に戻って来るよう縄文人たちは考えたのかもしれない。また、特別な土器で煮炊きされた食べ物は、見えない存在に捧げられ、儀式の終わりに集落の人々に分け与えられたはずだ。見えない存在の力を宿した食べ物は、結束と命をつなぐための生きる力を与えたかもしれない。

こうして土器の一部は、ただの鍋ではなくなった。

土器の模様はまるで祈りの呪文のよう

土偶や土器を見ていて思うことがある。彼らが作るものには、自己顕示がない。連載1回目(「空前の『縄文ブーム』背後にある日本人の憂鬱」)にも書いたが、とくに土偶はそう思う。誰かに褒められたくて、認められたくて奇抜な造形を作ったわけではない。前述してきたように、あるとすれば、見えない存在の視線を感じて作っていたのではないか。だから土偶は、奇抜な表現がなされていても嫌な感じがなく、善な空気をまとっているんじゃないだろうか。

では、土器はどうだろう。

中には「あ、この作り手、模様付けるの飽きてきたな」と思うものもある。模様がおざなりになって、だれ出す。そんな土器に出会うと、親近感を覚えてうれしくなる。

そうかと思えば、見ているだけで吐き気を覚えるぐらい狂気に満ちた土器もある。余白恐怖症ですか?と聞きたくなるくらい、土器の表面に細かい模様がびっしりと刻まれたものに出会うと、その気迫に気圧される。

何がここまで彼らを駆り立てるのだろうか。そう思わせる土器が山ほどある。そうなると、気まぐれで作った、もしくは、「オレの技量はすごいだろう」という個人的な思いで作ったとは思えない。

その模様はまるで、祈りの呪文のようだ。

すべての土器の模様がそうだとは思わない。しかし、土器には、見えない存在と対話するための模様が確かに刻まれている。そう考えるならば、現代人が考える使いやすい土器など彼らにとってさほど意味はない。複雑怪奇と思える造形にも合点が行くし、そうであらねばならなかったのだと思う。

とくに縄文時代中期に作られた土器を取り上げて岡本太郎はこう評した。「あの怪奇で重厚な、苛烈きわまる土器の美観に秘められてあるものは、まさにそのような四次元との対話なのです」〔『日本の伝統』岡本太郎(光文社知恵の森文庫)〕。

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