栗山監督が「こっちの責任」といつも言う理由 責任は「取る」ものではなく「果たす」ものだ
あのホークスの柳田だって、理想的な打ち方をしているかと言えば、決してそんなことはない。タイミングを取って、ただ遠くに飛ばしたいと思って思いっ切り振っていたら、自然とバットの軌道が良くなっていた、そんな印象を受ける。それでいいんだと思う。
では、監督は? そもそも、監督とは何なのか。チームの指揮を執るというのは、いったいどういうことなのか。7年経験させてもらって、いま感じていることを改めて書き留めてみた。
指揮官の責任とは
本で読んだ言葉だったと思う。
「3日間、誰も自分の文句を言わなかったら気を付けたほうがいい」と。
どんな仕事でも、学校でもそうだと思うが、イヤなこともあるし、苦しむこともあるし、嫌われることもある。でも、そんなふうに考えると、少し気が楽になる。イヤな話を聞いても、逆にホッとするというか、「まだ俺、大丈夫かもしれない」みたいに思えてくる。
そう考えておかないと、人間は弱い生き物だから、嫌われるのがイヤで媚び始めたりする。そうすると、肝心なところを見誤ったり、間違ったりする。
監督という仕事をやらせてもらっていて、「嫌われることも絶対にプラスになる。いつかわかってもらえるときがくればいい」という肚の据わりは、つくづく大事なものだという実感がある。
組織のトップは、責任を取るのが仕事だと言われる。もちろん監督は、チームが勝てなければ、クビになってもしょうがない。それがいちばん勝ちやすい方法だと信じてやった結果、それでも勝てなかったのであれば、納得して受け入れるだけだ。その経験が少しでもチームの、そして選手の糧になればいい。
ただ一方で、はたして監督がクビになることで、責任を取ることになるのだろうか?という思いもある。自分が辞めたくらいで、きっと責任は取れない。取れるわけがない。
でも、もし自分が進退をかけることで、選手のためになれることがあるんだったら、そんなに幸せなことはない。それで十分だ。
本当に考え方次第なのだと思う。世の中にこんなに大勢の人がいて、こんなにたくさん野球をやっている人たちがいて、そんな中で、勝ち負けの責任が自分にある場面で野球ができるなんて、そんなにうれしいこと、そんなに喜ばしいことはない。だから、そんなことでへこたれている場合じゃないのだ。「今度は必ずやってやる」と思えば、また頑張れるし。
責任は「取る」ものではなく「果たす」もの。
「果たす」ことが、指揮官の責任だ。
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