田辺聖子はツチノコブームの火付け役だった 1972年の連載小説『すべってころんで』の意義

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「すべってころんで」新聞連載でのイラスト

現在我々が思い浮かべる、あのステレオタイプなツチノコのイメージは、『すべってころんで』の新聞連載(1972)と、翌年のテレビドラマがきっかけになっている。

そして『釣りキチ三平』でお馴染みの矢口高雄による『バチヘビ』(ツチノコの異称)の『少年マガジン』への連載(1973)へと続いていく。

ツチノコが大人気に

翌1974年には、前年に乱歩賞を受賞した小峰元がツチノコに噛み殺されたかのごとき死体をめぐるミステリー小説『ピタゴラス豆畑に死す』を書いている。そして、藤子不二雄は超人気マンガ『ドラえもん』のエピソードとして『ツチノコさがそう』を発表している。

少年誌各誌は争うようにして、ネッシーや雪男と共に、ツチノコを日本版NSC、じゃなかった日本版UMAとして大々的に取り上げた。いわば、新聞・テレビ・マンガ雑誌のメディアミックスにより、ツチノコは日本人の心に一気に浸透した。子ども達をも巻き込んだ一大ムーブメントに発展していくのである。

『ツチノコの民俗学』(青弓社)は、古来からの言い伝えから現代に至るまでのツチノコのあり方を丹念に追った若き碩学・伊藤龍平の名著。是非ご一読を。

たとえネス湖やヒマラヤくんだりまで出かけたところで、ネッシーや雪男には滅多に会うことはできない。そんな遠すぎるUMAとは異なり、裏山に行けば、いや、ことによったら隣の畑や家の庭に潜んでいるかもしれないUMAがツチノコだ。子ども達のハートをとらえ、ミステリーブーム、オカルトブームの寵児となったのは当然過ぎるほど当然の結果であった。

話を『すべってころんで』に戻す。この小説の後半で描かれている渓流釣りの猛者達で構成されたツチノコ探検隊は、実在の団体をモデルにしている。それは日本屈指の釣り随筆の名手、山本素石(太一をツチノコ探索の世界に引き込む岩井寒岩のモデル)をリーダーとする、ロータリークラブならぬ「ノータリンクラブ」だ。

ノータリンクラブは、顧問に文化人類学者の今西錦司を迎え、釣りを楽しむと同時にツチノコ捕獲に取り組むクラブだった。素石は1959年、渓流釣りの途中でツチノコを目撃しており、1960年代以降、随筆でも度々ツチノコを取り上げている。そのツチノコへの熱い思いが高じて結成されたのがノータリンクラブだった。その様子は、素石の傑作エッセイ『逃げろツチノコ』(二見書房)にユーモラスに描かれている。

素石のエッセイによってテレビなどでも特集が放送される中で、ツチノコに興味をもったのが田辺聖子。素石本人にも取材して、『すべってころんで』を書いたのだという。その後のツチノコブレイクは上述の通り。いわば『すべってころんで』は、素石によって温度が上昇していたツチノコ火薬樽の導火線に火をつけて大爆発(大ブレイク)させたといえようか。

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