出産の真実を知った人が直面する根深い悩み

不妊治療という決断が新たな社会問題を招く

筆者は昨年8月、調査のためにオーストラリア・メルボルンを訪れた。メルボルンを州都とするビクトリア州は、生殖医療の先進地であり、かつ法律整備が進んでいる。

初めてメルボルンでフィールドワークをしたのは1993年、筆者はまだ大学院生だった。法学者、生命倫理学者、ジェンダー論研究者、医師、ソーシャルワーカーなどにインタビューした。なかでも印象に残っているのは、カトリック系の医療ソーシャルワーカーが開いたシンポジウムへの参加だ。主催は生殖医療技術に批判的な立場の人たちである。

そのスピーカーのひとりがAIDで生まれたアメリカ人男性だった。この男性は、父親とも弟たちとも似ていないことから、青年期には母の浮気によって生まれたのだと思い悩んだ、と話した。30代半ばに母親から自分と弟2人がAIDで生まれたことを知らされた。父と弟の1人が亡くなったあとだった。

思ってもみなかった事実への驚きと両親への同情、そして長年事実を隠されてきたことへの怒りなど複雑な感情が交差した。その後ずっと、あらゆる方法を試みてドナーを探してきたが、見つかっていない。彼はそう話しながら、涙で言葉に詰まった。

それを見た筆者は、AIDで生まれたということが、これほど大きな悩みを抱えることなのかと驚くとともに、彼がドナーを探し続ける理由が遺伝的な父へのこだわりからだと思った。だが、その考えが間違っていたことに後になって気づいた。

当人が望めばドナーに連絡できる

2003年には共同研究として、メルボルンとシドニーで調査した。ビクトリア州では、ドナーを伴う生殖補助医療によって生まれた人の「出自を知る権利」を保障する法律を1998年に施行していた。その法律は、親、精子や卵子のドナー、そして生まれた人へのカウンセリングと情報提供を州の機関が担うことを定めている。

重要なのは登録システムの管理・運営である。「出自を知る権利」を保障するには、ドナー、親になった人、生まれた人のすべてが登録され、数十年後でも希望すればドナーに連絡ができるようにしておかないと意味がない。非常によく検討されたシステムだ。

しかし、法律施行前に生まれた場合には本人もドナーも登録されていない。そこで生まれた人とその両親、ドナーが自発的に登録することを呼び掛けていた。2017年からは、1998年以前に生まれた人を含むすべての人が州の機関(VARTA)からのサポートを得られるような制度に変更された。

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