古市憲寿の「芥川賞」が全くおかしくない理由 「タレント小説」ノミネートは決して悪くない
芥川賞と同じ日に決まる並立した文学賞に直木賞がある。比較的タレントの小説となじみやすかったのは、その直木賞のほうだった。
1979年『別冊文藝春秋』に中山千夏が発表した『子役の時間』は、舞台「がめつい奴」などで活躍、天才子役と騒がれた自身の経験を創作化したものだが、表舞台に立つ有名タレントがいよいよ直木賞の候補に選ばれた画期的な一作となる。
『オール讀物』『小説新潮』『小説現代』『小説宝石』、その他各社の小説誌や読物誌は、ぞくぞくと有名人の手による小説を載せるようになり、テレビや映画、舞台でおなじみの人たちが書下ろしで小説を刊行することも珍しくなくなった。
現実に受賞者も誕生した。1981年『人間万事塞翁が丙午』(新潮社)の青島幸男が直木賞に選ばれたのだ。この作品はベストセラー街道を驀進(ばくしん)し、半年で100万部を突破したと発表されている。芸能人と文学賞が組み合わさったときの爆発力は、やはり当時からすさまじかった。
その点、芥川賞はずいぶんと進展が遅れた。1980年代、芥川賞候補になったタレントは女優の高橋洋子ただひとり。1981年に中央公論新人賞に応募して受賞した彼女は、翌年『中央公論』に『通りゃんせ』を発表する。前代未聞の芥川賞女優が生まれるかと騒がれたが、実現はしなかった。
「芥川賞」の意義
当時も今も、芥川賞の候補に選ばれるためには、ひとつの壁がある。壁というか、ある種の条件と言ってもいい。どの出版社の、どの雑誌に小説を発表するか。それが重要なのだ。
芥川賞では主に、東京の大手出版社が定期的に刊行する「純文芸誌」と呼ばれる数誌が、予選の対象になっている。タレントによって数多くの小説が書かれるようになった1980年代、純文芸誌はタレントが創作を寄せる舞台ではなかったが、20年経ち、30年経つうちに、その状況が変わってきた結果、ようやく芥川賞予選の範囲の中に彼らの小説も入るようになってきたのだ。
「そういう状況の変化こそが、ますます文芸の低下を招いたのだ」と批判する声があるかもしれない。しかし、小説の潜在的な書き手は、どんな職業のなかにもいるだろう。そのために一般から広く原稿を募る。と同時に、すでにエッセイなどで文章を発表している人たちの中から、有望な書き手を探す。さらにそこから、たくさんの人に読まれる小説を生むことも、商業出版をする企業の忘れてはいけない大事な役割のひとつだ。
そもそも芥川賞はどんな賞だろうか。出版物を売るための宣伝だけを目指してきたわけではない。かといって、純粋に文芸的価値を議論することに特化した事業でもない。作品の宣伝と、作家の発掘・顕彰(けんしょう)。両者を組み合わせて相乗効果を起こす。起こしたいと願って悪戦苦闘する。それがこの賞の特徴ではなかったか。八十数年前に菊池寛や佐佐木茂索が創設したころから変わらない。芥川賞はこのままの路線で何の問題もない。
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