「薬」の奥深さを一体どれだけ知っていますか この蘊蓄100章は思わず人に言いたくなる

✎ 1〜 ✎ 99 ✎ 100 ✎ 101 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

61. 庶民にも薬の有用性が知れ渡るが、彼らが実際に薬を使用するようになるのは江戸時代に入ってからである

62. 1606年、中国・明の李時珍が1892種の生薬についてその薬効を詳述した『本草綱目』が輸入される

63. 1637年にはその和刻本が京都で出版され、江戸時代の本草学の発達に多大な影響を与えた

64. 生薬の採取と栽培が盛んになり、徳川吉宗の治世には医薬が「売薬」として庶民の簡易治療薬に用いられる

65. 医薬とは医師が調合した薬のことだが、幕府はその販売も支持し、薬種問屋や成薬店が各地に誕生した

66. なかでも京都・大阪・江戸の各都市、街道筋、門前町には大きな薬種問屋が店を構え、立派な看板を掲げた

67. 彼らは多色刷りの美しいチラシを使用し宣伝にも力を入れ、広告面でも商業面でも時代を先取りしていった

68. 医薬の大衆化が進むと、各地の「家伝薬」や「秘薬」なども売薬として販売されるようになっていく

配置薬は江戸中期から全国に普及

69. 一方、越中、田代、近江、大和では藩の経済基盤の安定向上を目的に「配置売薬」をスタートする

70. 配置売薬とは、年に一度、薬屋が各家庭を訪問して薬を置き、使用した分の薬代のみを翌年に受け取る商法

71. 雪深い山村や人里離れた地に暮らす人、町中でも医療に恵まれなかった人々にとっては心強い存在だった

富山の薬売りの薬入れ(写真:yoichidou/PIXTA)

72. 配置売薬は江戸中期から急速に全国に普及するが、なかでも有名なのが「富山売薬」

73. 越中富山の配置売薬商人たちは組織を作って日本全国を行商し、藩も専門の役所を作り彼らを支援した

74. 富山の商人たちは家庭訪問の際、〈富山絵〉と呼ばれる浮世絵などを土産にして子どもたちを喜ばせた

75. 1543年にポルトガル人が種子島に漂着して以降、日本には多くのポルトガル人やスペイン人が渡来していた

76. 彼らはキリスト教を布教するかたわら医療も施し、その西洋医学に基づいた医療は「南蛮医学」と呼ばれた

77. しかし彼らは手持ちの「洋薬」が少なく、創傷に軟膏や硬膏を使う膏薬外科が中心だったともいわれている

78. 1639年に幕府は第五次鎖国令を出しポルトガル船の入港を禁止。長崎の交易はオランダ、中国に限られた

79. 幕府は医学や天文学に関する書籍の輸入を禁じなかったため、オランダから医薬や植物学の知識が流入

80. オランダからもたらされた西洋医学は「蘭方医学」と呼ばれ、施術に使用する薬物=「蘭方薬」も輸入された

次ページ従来の日本の医学を「漢方」と呼ぶようになる
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事