食事を作ってもらったことは、ほとんどないです。小学校中学年の頃からずっと、毎日千円を渡されて『これでどうにかしなさい』と。近所のスーパーやコンビニでお弁当を買ったり、ファミレスで一人で食べたりしていました。だから私は、ちゃんと朝起きてご飯を食べて、学校に行って帰ってきて、みんなと遊んで、勉強して寝る、みたいな“生活”というものを一度も送ったことがなくて。
症状がひどいときは、母は『自分のお金を盗まれている』という被害妄想を抱いて、口座があった近くの郵便局に怒鳴り込んだり、警察に行ってワーッと喚いたり。近所の人は『あの家の子どもだ』という目で私を見ます。悪化したときは、妄想にとりつかれて暴れることもありました。だから、いつも緊張していました。子どもではいられないんですよね」
簡単に「大変だったね」などとは言えない、想像を超える状況です。子どもにとってはネグレクトに近いでしょうが、母親も好きで病気になったわけではなく、責められないのが辛いところです。
周囲の大人は、祐実さんの状況を、理解してはくれませんでした。
「『母がおかしいんだ』ということを、私は人に言えないわけです。母は、いつも目に見えておかしいわけじゃなく、学校の先生と接するときだけはわりと普通だったりする。そういうときは本当に、ただの穏やかなお母さんなので、私が母のことを言うと『あんなにいいお母さんなのに、なんてひどいことを言うんだ』と言われてしまいます」
母親が入院した際は、一時保護所に入ったことや、養護学校(現・特別支援学校)に行ったこともあります。一度は児童養護施設に入る話も出ましたが、これは祐実さんが拒否したそう。
小学校は、ほぼ不登校でした。「学校にはたまに行く」という程度で、たくさんしていた習い事も「行ったり行かなかったりだった」といいます。
「高学年の頃からリストカットが始まりました。当時のことは断片的にしか覚えていないんですけれど、その頃に考えていたのは、『自分が死ぬか、お母さんを殺すか』。とにかく母親と離れたかった。
何もかもが、嫌だったんです。母親が近所に行って問題を起こすのも、そのわりに学校の先生と会うときだけ調子がよかったりするのも、家でずっと寝ているのも、嫌だった。母といっしょに外を歩くと、みんなに見られる視線も嫌でした」
母さんは病気なんだから、そんなことを言わないであげて――。祐実さんが、さんざん言われてきたことです。もちろんお母さんも病気になって辛かったことでしょう。しかし、いくらお母さんが辛かったとしても、祐実さんの損なわれた日々が、帳消しになるものでもありません。
母の主治医が最大の理解者だった
祐実さんの子ども時代に支えとなったのは、母親が通う精神科の主治医でした。主治医はクリニックの一部を開放し、患者やその家族が「用もなく集まれる場所」にしており、祐実さんもそこで話すことができたのです。
「母の主治医の先生には、いろんなことを教えてもらいました。当時私も不眠症の傾向があったので、弱いお薬を出してもらったこともあります。私のことも心配してくれていたんでしょうね。
小学校高学年からは、その先生がつくった劇団が、私にとって『自分の居場所』になりました。母とふたりだけの家以外に居場所をもてたことは、私の人生において救いでした。もし家だけだったら、私は壊れていたかもしれない。この先生には非常に感謝していて、『育ての父』と呼んでいたこともあるくらいです」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら