患者だけでなく、その家族、とりわけ子どもの立場にもしっかりと目を配ってくれる医者に出会えたことは、祐実さんにとって不幸中の幸いといえるでしょう。フラットな立ち位置で患者や家族とかかわってくれる医者は、一般的にまだ、決して多くはなさそうです。
「中学を出て一人暮らしを始めたのですが、たまたまこの先生と再会したことがあって。ニヤリと笑って『孤独だろう?』と言われたことを、よく覚えています。私をあまり子ども扱いしなかったんですね。そのことが、ボロボロだった私の自己肯定感をすごく支えてくれていました。
小学校のとき、私が間違った期待をしないように、母の状況をちゃんと説明してくれたことにも感謝しています。すごくいい理解者でした」
大人たちはしばしば「子どもには残酷だ」として、重要な情報を子どもから遠ざけがちですが、情報を知らずに悲しい思いをするのは結局、子ども自身だったりします。母の担当医は、相手が子どもでもひとりの人間として対等に扱うことを、当然と考えていたのでしょう。
ひとりで暮らそうとするも、多くの障害が
小学校を出た後、祐実さんは母親のもとを離れたい一心で、寮がある中高一貫校に入学します。しかし人間関係をうまく築けず、寮を出ることに。中学卒業時にようやく部屋を借りて家を出たのですが、残念ながら学校が一人暮らしを認めていなかったため、高校への進学はあきらめました。
中学を卒業し、その年のうちに予備校に通って大検に合格。以降はバイトをしながら舞台にかかわる日々を送ります。高校3年にあたる年には、再び予備校に通って大学に合格し、東京へ。しかし、父親の言いつけに従い「苦手な理系」に進んだため単位が取れず、大学は中退することに。
精神状態が悪くなったのは、20代に入ってからでした。きっかけは腕の神経損傷でしたが、幼少期からたった一人で生きてきた疲れが出たのでしょう。「エネルギーが尽きた」状態だったといいます。
その後、数年の辛い時期を経て、とあるボランティア活動を機に浮上。難しい資格試験に独学で合格し、現在の生活に至ります。
「父親の経済的な援助のおかげで、お金に困ったことはなく、それは確かにありがたいと思っています。でも私はやっぱり、父に身近にいてほしかった。お金だけ払って“親”という顔をするんじゃなくて、いちばん辛いときにちゃんと“親として”いてほしかった。
精神状態が悪かったときは、父に電話すると疎ましがられてすぐ切られたし、数年前に私が手術を受けたときは、家族の同意が必要で父に住所を尋ねたんですが、教えてもらえなくてショックでした。
やっぱり、許せないですよね。父は母と離婚してしまえば、あとはほかの人に安らぎを求めることができたわけです。実際、再婚もしている。でも私はそうじゃない。父親は私に、『あなたのお母さんなんだから、優しくしなさい』と言うけれど、『あなたは自分で選べたけれど、私は自分で選んでいないのよ』と思います」
感謝はある。でも、許せない。私が聞いても、それは当たり前だと感じます。実の父親に対する祐実さんの思いは、いまも複雑です。
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