「探検家」の真実を一体どれだけ知ってますか 蘊蓄100章でたどる未知の開拓者たち

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41. 一方、ハドソンは1610年に新型船ディスカバリー号を用いて、四度目の航海となる北米大陸探検に出発

42. 5月にアイスランド、6月にグリーンランドに到達し、ついにアメリカの北を迂回する北西航路を発見した

43. 氷海の難所を抜けた翌1611年の春、帰国を望む乗組員とさらなる探検を望むハドソンの間で不和が生じる

44. 本船を降ろされ小船に置き去りにされたハドソンなど6名は本船のあとを追ったものの消息不明となった

45. 〈キャプテン・クック〉とあだ名され、近代的探検の祖といわれるのがイギリスのジェームズ・クックだ

46. 太平洋で三度の航海を行い、オーストラリア東海岸に到達。ハワイ諸島を発見し世界周航日誌を自筆で記した

47. 1766年、彼がエンデバー号で行った第一回目の航海では、世界の探検史上初めて壊血病死者を出さなかった

48. しかし第三回航海の途上、ハワイ島の先住民との間で争いが起き、クックは1779年に現地で落命している

49. 彼は卓越した航海技術と調査能力を持ち、数多の地域を正確に測量して地図を作成。偉大な功績を遺した

50. 海を制した英雄だが、彼の陸での住まいはロンドンのイーストエンドの貧民街にあり、直系子孫もいない

日本の探検家・間宮林蔵は樺太を発見

51. 1775年に常陸国筑波郡に農民の子として生まれ、徳川将軍家御庭番で探検家まで上りつめたのが間宮林蔵だ

52. 生家近くで行われた岡堰の普請作業で幕臣に地理や算術の才能を見込まれた間宮は幕府の下役人になった

53. 1799年には国後場所(国後島、択捉島、得撫島)に派遣され、同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学ぶ

間宮林蔵は樺太が島であることを発見し、のちにシーボルトが樺太・大陸間の海峡最狭部を〈マミアノセト〉と命名(写真:YNS/PIXTA)

54. 1808年には幕府の命で当時未知の領域だった樺太を探索。翌年6月に宗谷に帰着し調査報告書を提出する

55. しかし間宮はさらに奥地の探索を願い出ると、翌7月には単身で再び樺太へ向かい、島であることを確認する

56. その功績から、のちにシーボルトは樺太・大陸間の海峡最狭部を〈マミアノセト〉と命名し日本地図に記した

57. 欧州諸国も北を目指していた。北西航路は発見されたが北極海からアジアへ向かう〈北東航路〉が課題だった

58. 1875年、史上初めて北極海の北東航路制覇に成功したのが、探検家アドルフ・エリク・ノルデンショルドだ

59. 彼はスウェーデン系フィンランド人の鉱山学者で、その航海で北東航路の開拓のみならず日本まで到達した

60. 彼が指揮した蒸気船ヴェガ号は一人の死者も出すことなく太平洋を南下。カムチャッカ半島を経て日本へ

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