いつかやってくるそのとき、おそらく私には何1つ為す術がないのだろう。私や妹に、自分の持っているものすべて、惜しみなく与えてきたこれまでのように、そのときがくればきっと父も母も、役目を終えたのだと物分かりよく理解し、執着なく、生を手放してしまうのだろう。
良い人生だったと思うかもしれないし、まあこんなもんだな、と思うのかもしれない。やり残したことを大きく悔いたり、誰かへの憎しみに駆られたりはしないのだろう。父と母が今生きているということ、そしていつかはいなくなるということ、そのことを思うとただ無性に悲しくなって、怖くなって、2人のギョッとした顔をよそに、私は長いこと大声をあげて泣いた。
もしかすると、中学生や高校生の頃にやってくる思春期というのは、こんなふうに、実は自分の外に前々からずっとあった抗えない力、人の生き死にを左右するような巨大な力の存在に、はたと気づかされる時期なのかもしれない。足がすくんで、一時的に動けなくなってしまう、そんなときなのかもしれない。しかし時間とともに、だんだんとそんな恐怖にも慣れる。恐れを鈍化させるテクニックが身に付くようになる。何しろ、生きていかなければならないのだ。
“大切な誰か”は、その肉体の中にいるとは限らない
先日、友人の紹介で納棺師の方とお話しする機会があった。納棺師さんというのは、亡くなった方のお顔に死化粧を施したり、傷ついた遺体の修復作業を行うこともあるのだという。
「遺体とたくさん接するのは怖くないんですか? おばけとか……」と、失礼ながらつい興味本位で尋ねた際、その方から返ってきた言葉が、今でも胸に残っている。
「私は、ご遺体というのは、人が誰も住まなくなった空き家のようなものだと感じるんです」
なるほど、とそれを聞いてすぐに腑に落ちたのは、日頃から私たちが、誰かの不在の中に、その存在を感じ取る経験を無自覚に重ねているからかもしれないと思う。
遠くに住む両親、あるいは亡くなった家族や友人を、ふいに自分のすぐ側に感じるときがある。“大切な誰か”は必ずしも、その肉体の中にいるとは限らないのかもしれない。
“ここにはいないけれど、この世にはいる”
“この世にいるのに、ここにはいない”
あるいは“この世にはいないけれど、ここにいる”
樹木希林さんが夫である歌手の内田裕也さんと長く別居状態にあったというのは有名な話だ。生前の希林さんは、最愛の人の長期にわたる不在を、どう受け止めていたのだろう。そして今、妻の不在を、夫の内田さんはどう感じているのだろう。
赤の他人に、その答えなど知りようもないのだけれど。
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