「自分の子を苦しめる親」に欠けている記憶 沢木耕太郎"「いのち」の記憶"より

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もし、子どもに面と向かってそう訊ねられたら、どう答えていただろう。大人になると目ざとくなるのさ。あるいは、大人になると責任感が増すのさ、とでも答えていただろうか。しかし、どれも違っているような気がする。親にとっては子どもに頼まれたことをするのが少しも苦痛ではないのだ。もしかしたら、それは「喜び」ですらあるかもしれない。

睡眠や食物を削るのは、「生命」を削ることと等しい

あるいは、私の子どもの頃の食卓での記憶に、こんなものがある。食べ盛りの私のおかずの皿に何もなくなってしまうと、母が自分の皿から肉や魚を私の皿に移してくれて、言う。

「食べなさい」

そのときも、子どもの頃の私は思ったはずだ。お母さんはお腹がすかないのだろうか、と。

そして、気がつくと、親になった私も母と同じようなことをやっていた。年を取ると、育ち盛りのときほどの食欲がなくなっているということもあるだろう。だが、それだけでなく、なにより子どもがおいしそうに食べている姿を見ることは自分の「喜び」であるからだ。

ある意味で、親は子に、「睡眠」や「食物」を削って、与えていると言えなくもない。だがそれは、親の「義務」だからというのではなく、「喜び」であるからだ。それを愛情と言ってもよい。しかし、大方の親たちは、それを愛情とも意識しないまま、ごく普通に行っている。「睡眠」を削り、「食物」を削るということは、「生命」を削るということと等しい行為である。自分の「いのち」を削って、子に与える。それが何でもないことのように行われることによって、「いのち」もまたごく自然に伝えられることになるのだ。

しかし、もしも何かの理由でそれがうまくいかなくなったとしたら?

かつて私は、家庭というものに襲いかかる最も悲痛な出来事は何だろうと自問し、その最大のもののひとつは幼い子どもを不意に失ってしまうことではないかと自答したことがある。たとえそれが病気によるものであれ、事故によるものであれ、場合によっては犯罪によるものであれ、不意に幼い子どもを奪われること以上に家庭を苦しめるものはないのではないかと考えたのだ。

次ページさらに悲痛な出来事が日本でも起こりつつある
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