樹木希林さん「難の多い人生は、ありがたい」 不登校経験者たちに語っていた言葉

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今日、みなさんから話を聞きたいと思っていただけたのは、私がたくさんのダイバダッタに出会ってきたからだと思います。もちろん私自身がダイバダッタだったときもあります。ダイバダッタに出会う、あるいは自分がそうなってしまう、そういう難の多い人生を卑屈になるのではなく受けとめ方を変える。自分にとって具体的に不本意なことをしてくる存在を師として先生として受けとめる。受けとめ方を変えることで、すばらしいものに見えてくるんじゃないでしょうか。

病気になって年を取って

石井 そう思うきっかけはなにかあったのでしょうか?

(写真:不登校新聞)

樹木 やっぱりがんになったのは大きかった気がします。ただ、この年になると、がんだけじゃなくていろんな病気にかかりますし、不自由になります。腰が重くなって、目がかすんで針に糸も通らなくなっていく。でもね、それでいいの。こうやって人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。若くても不自由なことはたくさんあると思います。それは自分のことだけではなく、他人だったり、ときにはわが子だったりもします。でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、不自由なまま、おもしろがっていく。それが大事なんじゃないかと思うんです。

石井 なるほど、それでは樹木さんがどんな子ども時代を送ったのかを、お聞きしてもいいでしょうか?

樹木 私が生まれたのは昭和18年1月15日、戦争の真っ最中でした。生まれたのは神田の神保町。母親はカフェをやっていて、父親は兵隊にとられていました。何度も住む場所を変えながら暮らしたそうです。記憶に残っているのは、青梅街道のバラック街。見渡すかぎりのバラックのなかで、幼少期をすごしました。私が4歳ごろのある日、中2階の布団置き場で遊んでいたんです。そしたら、そこから落っこちてしまったんです。打ち所が悪かったんでしょうね、それからというもの毎晩おねしょをするようになりました。たしか10歳ごろぐらいまでは続きました。だから、私の家では毎朝、布団を干していたし、友だちの家に泊まりに行くときはビニール持参(笑)。

それ以外で記憶にあるのは、いつも友だちがいなかったこと、一人で遊んでいたこと、幼稚園に通うのがイヤだったこと、スポーツが苦手だったこと、人とはほとんどしゃべらなかったこと。しゃべらないのは近所でも評判でね。私がテレビに出始めたとき、まわりはだいぶ騒いだそうです。ほとんど声を聴いたことがないのにって(笑)。

今ふり返ってみるとポイントだったと思うのが、小学6年生の水泳大会のとき。小学校6年生となれば、背泳ぎだ、クロールだ、とみんなすごいでしょ。私はからっきしダメ。なので水泳大会の「歩き競争」に出されたんです。プールのなかを歩いて向こう岸まで競争するレース。つまり、泳げない子たちの特別な競走で、私以外は小学校1年生~2年生ぐらいのレースでした。

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