しかし現在では、生コンクリートの使用が増えて、セメント袋自体のニーズが激減。製袋用クレープ紙の製造は、今や山陽製紙だけになりました。マーケットが消えるとともに会社も無くなる。そんな危機感から、新たな市場開拓に向かう必要がありました。
1968年に社長は2代目の原田博氏が継ぎ、その息子の原田六次郎氏は広島大学船舶工学科に入学しました。そこで将来の伴侶となる千秋さん(現専務)と出会います。マンドリンクラブの仲間でした。
1972年に大学を卒業した後、広島、大阪から遠く離れた新潟鐵工所に入社、千秋さんと幸せな家庭を築きます。ところが1974年、石油ショックが起こり、船舶業界は大打撃を受けます。厳しい業況の中、父親の博氏から「大阪に戻って来いよ」との電話がありました。悩んだ末、家族と共に帰阪。子どもの時からの顔馴染みの社員とともに、勝手の違う仕事に必死に取り組みました。
父親が急逝し、34歳の若さで3代目社長に就任
六次郎氏がようやく仕事に慣れた10年目の1984年、父親の博氏がスイミングクラブで倒れ、急逝します。同年、当時常務だった六次郎氏は、34歳の若さで3代目社長に就任することになります。会社としては3回目の危機でした。
急な展開に戸惑う六次郎氏に、社員全員から励ましの声がかかります。祖父と父が築いた家族的経営のDNAは、社員の心に山陽魂として根付いていたのです。そのときの雰囲気も、「社史」の漫画がよく伝えてくれています。「私たちみんなで常務のことを支えていきます」との言葉に、原田氏は「ともに歩んでいく社員がいる限り前進あるのみだ!」と決意します。
なお注目したいのは、全ページにわたって社員の名前が個々に記載されていることです。「ご縁をいただいた社員さんには、できるだけ参加してもらえるよう心掛けました」と「社史」の前書きにあります。社員あっての会社、そんな六次郎社長の思いが伝わってくる言葉です。
山陽製紙として甦ってから50年目の2007年、原田社長は、次の100年に向かって経営理念を見直すことにしました。製紙業は、大量の水と膨大なエネルギーを使います。地球の貴重な資源を使うことで会社が存続できることを認識し、環境負荷低減に真剣に取り組むことを前面に押し出すことにしました。ただ作成には苦労しました。創業の地の広島に赴いて会社の歴史を顧み、原案を作成して7人の社員と幾度も討論。さらに千秋夫人と山に籠り、最終的な文言を練り上げました。
「私たちは紙創りを通してお客様と喜びを共有し、環境に配慮した循環型社会に貢献します」
取り引き先、金融機関、仲間の社員たち、いろいろな人に支えられてきた歴史を踏まえ、未来に向かう気持ちを表現しました。まさに、入魂の経営理念です。
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