10歳で朝鮮人になった男性が忘れない「痛み」

当たり前にある日常の、とてつもない重さ

何年か前、私は、それまで親しくしていた人との思いがけない別離に直面し、どうしようもないほど打ちのめされていた。そんな話をどこからか聞きつけたPは、その日のうちに近所のカフェに私を呼び出した。待ち合わせの時間より少し遅れてやってきたPは、私の前に立つなり、羽織っていたジャケットの前をバサッと、クールなポップスターさながらに観音開きにした。

ジャケットの裏地には、縁あって私が制作に携わった“泣いてもいいよ”と書かれたシールが、ぎっしりと何枚も貼られていたのだった。おまけに、よく見るとそれらは本物のシールより一回りほどサイズが大きく、画質も荒い。聞けば、シールの入手困難な事情を鑑みたPが、オフィスのプリンターで自前で印刷、一枚一枚ハサミで切り取っては、テープで貼り付けたのだという。

そのときの私はあまりにも打ちひしがれており、自分の置かれている状況にもかわらず、どこか現実味が欠けていて、だからほとんど泣くことができずにいた。けれどもPの思いもよらない優しさを前に、悲しいのかうれしいのかわからない涙が次々とあふれ出てきて、しばらくの間どうすることもできず、ただ許されるままに泣いた。

その人が、そのとき、いちばん大切にしたい気持ち

Pはいつも、誰に対してもそんな調子なのだ。周りに困ったり、落ち込んだりしている友人がいれば、何をおいてもすぐに駆けつけてくれる。そのうえで、黙って話を聞いてほしい人のそばでは、ただ黙って話を聞いている。もう一歩で立ち上がれそうな人には、背中を押す言葉をかける。誰かが良い仕事をしたり、幸運に恵まれたりすれば、自分がそれによってどれほど感動したか、オーバーなほどの言葉を重ね、延々と力強く称賛してくれる。

Pは、目の前にいる人がその瞬間、いちばん大切にしたい気持ちを、正確に見抜くことができる。なぜならそれは、Pが子どもの頃から今に至るまで、ずっとやり続けてきたことだから。またそれと同時に、自分にとって当たり前だったものが突如として失われてしまう、そのことの途方もない心細さを、Pが痛いほど知っているからなのではないだろうか。

10年後も、20年後も。Pはきっと今と何一つ変わらず、何気ない日常の中で、ふとしたことで傷ついてしまう私たちを、その都度じんわりとあたたかく癒やしてくれているのだろう。家族や友人、たくさんの人の思いを、決して見て見ぬふりしないP。彼の作ったトックとチキンスープの包み込むように柔らかな味わいは、さながらPという人、そのもののように感じられた。

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