ところが、そんなPの新しい生活も、2カ月で終止符を打つ。言葉の壁は存外に大きく、Pは次第に同級生からいじめられるようになってしまったのだ。日に日に顔を曇らせ、沈みがちになるPの様子を心配した両親によって、2カ月ののち再び、以前通っていた日本の公立小学校に戻されることとなった。
「だけどさ、当然ながらそれですべてが元通り、なんてうまくはいかないもんなのよ」
その日Pは、私や私の家族に手料理を振る舞ってくれるといい、わが家の狭い台所に、長身を丸めるようにして立っていた。調理しながら、昔のことを少しずつ、思い出したように語る。
朝鮮学校から、それまで通っていた学校に戻ると、2カ月いったいどうしていたのかとみんなが口々に尋ねてきた。大多数の友人には適当なことを言ってごまかしたものの、特に仲の良かった数人には、意を決して本当のことを打ち明けた。
“え、お前、朝鮮人だったの?”
なかには露骨に眉をひそめる友達もいた。けれどもそんな反応と同じくらいPの心に突き刺さったのは、“朝鮮人だからって気にするなよ”という慰めの言葉だった。
見た目も、話す言葉も、生活も、以前と何一つ変わっていないのに、自分に朝鮮人であるという事実が付け加えられただけで、同情され、慰められる。なぜ慰められなければならないのかわからなかった。馴染みのある場所に帰ってきたはずなのに、みんなと同じだった自分は消えてしまった。10歳の少年が突如として背負うには、重い現実だった。
「やられたら徹底的にやり返せ」
一方Pとは対象的に、一緒に転校した兄のほうはというと、新しい環境にみるみる適応していった。
Pいわく、当時の在日コリアンは、企業への就職や結婚といった、生活におけるさまざまな場面で露骨な差別を受けていた。大人たちでさえそうなのだから、理性や知性の未熟な子どもたちの世界はなおさらだった。朝鮮学校の生徒は朝鮮人であるという理由だけで、直接的な暴力の対象となった。
当時、近隣の不良中高生の間では、朝鮮学校の生徒を通学路で待ち伏せしてケンカを挑み、相手を負かして学ランのボタンを奪って帰る、そんなタチの悪い遊びが横行していた。奪ったボタンの数だけ、仲間内でハクがつくというのだ。学校同士の抗争となれば、人数が少ない朝鮮学校の生徒は不利だが、だからって、ただ黙ってやられているわけにもいかない。やられたらやり返す。その応酬がいつまでも続く。そんな時代だった。生傷の絶えない戦場のような毎日の中で、もともとは気の優しかったPの兄も、次第にある種の凄みを増し、転校して1年も経たないうちに、いわゆる“ヤンキー”の世界にすっかり染まってしまった。
そんな兄も、今から20年前に、病気で他界してしまった。Pには子どもの頃、兄から聞かされた忘れられない言葉がある。
“いいか、やられたら絶対にやり返せ。それも、次にまた仕返ししようなんて気力さえ失わせるほど徹底的にやれ。そうじゃなきゃお前がやられるんだ”
そんな兄の姿や、同様に在日コリアンとして生きる親戚の姿を間近で見ながら、Pは自分がどう生きるべきかを思い悩んだ。
「俺はもともと生真面目な性格だから。お前は朝鮮人だと親や親戚に言われると、そうか、俺は朝鮮人だ。これからは朝鮮人として生きていかなきゃと思う。でも、兄や親戚を見てるとやっぱりいろんな葛藤があるわけよ」
自分は何者か。何者として生きるべきか。
大学に進学したPは、途中で1年休学し、留学生としてアメリカに渡った。長い葛藤の中で、日本人にも、朝鮮人にもなりきれない不確かな自分のまま日本で暮らし続けることに耐えられないと感じていた。いずれ日本で暮らすことをやめてもいいように、その準備をしておこうと考えたのだ。
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