10歳で朝鮮人になった男性が忘れない「痛み」

当たり前にある日常の、とてつもない重さ

Pの実家は、両親が日本に渡って以来、一代で築き上げた町工場。決して裕福とは言い難い中で、Pを東京の私大に通わせてくれた。そのうえ留学までさせてくれるというのだから、当然贅沢は言えない。

費用を最優先に検討した末、渡航先はミシガン州に決まった。訪れてみてわかったことに、大学はとんでもない田舎町にあり、繁華街に出るには数時間車を走らせなければならない。それでいて、貧乏学生のPには車を買えるような余裕もなかった。しばらくは友人もできず、ホームシックになり、東京にいる友人に手紙を書いたりして過ごした。それでもなんとか慣れてくると、アメリカでの生活はPに思いもよらない世界を見せてくれた。

「なんせアメリカには、純粋なアメリカ人なんてほとんどいない。メキシカンアメリカン、スパニッシュアメリカン、コリアンアメリカン。いろんな国にルーツを持つ人たちがアメリカ人として生活している。もともとの国の言葉のファミリーネームと、英語のファーストネームを堂々と名乗っている。それで俺も、自分は日本で暮らすコリアンジャパニーズなんだって。ようやくそう思えたんだよ」

日本に帰国したPは、それまで使っていた日本の名字を、両親が本来持つ、韓国の名字にあらためた。韓国の名字と日本の名前。それこそがPの、自分で選んで決めた生き方だった。

簡単に捨てられないもの

この日、Pがわが家で作ってくれていたのは“トック”と呼ばれる、韓国のお餅を入れたスープ。たっぷりの水と大きな鶏の骨付き肉、それにネギの青い部分とニンニク1片。ぐつぐつ煮込んでとったスープに、塩だけでシンプルに味を付ける。ここに、トックを入れて、少し火を通せば完成だ。お雑煮のような食べものだといい、実際にPの実家ではお正月に母親が決まって作ってくれていたのだという。

時間をかけて煮込んだ、澄んだスープを一口飲み込むと、じわっと体中に優しい味が広がった。程よい弾力のあるトックに、スープがよく絡む。器の底に沈む鶏肉は、箸の先が触れたそばからほろほろと身がほぐれていく。

「だけどね。そうは言っても情けない話、俺にはまだどっちつかずの部分も残ってるのよ。日本でコリアンジャパニーズとして暮らしてる以上、さっさと帰化しちゃえばいいと頭では思っている。それが世界的に見てもスタンダードだと思うしね。だけどどうしてもそこに踏み切れないわけよ。自分でもなんでかわかんなかったんだけどさ。あるとき俺の大事な友達が言うのよ。“誰かが長い間大事にしてきたものを、簡単には捨てられないよな”って。自分のことなのに他人事みたいに、あ、そうかってね」

理屈じゃないのだとPは言う。日本に渡ってからのPの両親が、いったいどれほどの苦労をして生活の基盤を整えてきたか。両親が背負ってきたもの、息子である自分に託されたもの。それらの大きさを思うと、自分ひとりの意思で、簡単に手放すことはできないのだ。

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