真備町を襲った洪水は長年の懸念事項だった 小田川北側への避難指示は堤防決壊の4分前
「県議の方とか市議の方に一生懸命働いてもらって、何とか(川の)流れを変えようとしてきた」と芥川氏は言う。現在の河川整備計画は2010年に策定され、今秋に着工される予定だった。「もうちょっと早く、もう4─5年早かったらこういうことにはならなかった」と語った。
倉敷市では2005年以降、国土交通省に対し、整備工事を始めるよう毎年働きかけてきたという。しかし、国にとって優先度が高いとは認識されなかった。
倉敷市防災危機管理室は、ロイターの取材に対し、国交省は全国各地からのこうした整備事業の要望を受けて優先順位を判断しなければならない、とし、政府に理解を示した。
国交省中国地方整備局の山内洋志・河川調査官は、2014年の小田川付け替え事業について、適切な手続きに従ったとしたうえで大規模河川整備事業は、通常、長い期間がかかる、と述べた。
岡山県議会議長を勤める高橋戒隆氏は、河川工事が遅れた背景には、予算の縮小もあると指摘した。真備町で育った高橋氏は長年、洪水対策の重要性を訴えてきた。ロイターの取材に対し「自分が国を動かせなかったという無力感がある。住民の方々に対して申し訳ない。何とか間に合ったら、こんなことになっていなかったのに」と声を詰まらせた。
石井啓一国土交通相は13日の会見で、今回の豪雨で倉敷市に大きな被害が出たのは、与党の政策が間違っていたためで「人的災害」だったのではないかとの質問に、直接答えることはしなかった。
菅義偉官房長官は、12日の会見で「このような豪雨による被害を少しでも減らすために政府がどのようなことを行うことが必要なのか、改めて検討する必要がある」との認識を示した。
最初の計画から数十年も経過
真備町の住民の多くは、大きな水害のあった1972年と76年以降に、2つの川にはさまれたこの地域に引っ越してきた。お年寄りは洪水のリスクを認識していたが、床上までの浸水は経験しなかったと言う。真備町は、倉敷市中心部に通う「新住民」のベッドタウンとして人口が増加した。
倉敷市の河川整備計画は、過去50年にわたり様々な経緯で変遷してきた。岡山河川事務所によると、最初の計画は1968年まで遡る。