真備町浸水、50年間棚上げされた「改修計画」 政治に振り回されている間に、Xデーは訪れた

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豪雨で決壊した小田川の堤防の復旧工事の様子(7月12日、写真:共同通信社)

未曾有の豪雨災害に見舞われた西日本では、現在も懸命の復旧作業が続く。

特に被害が大きかったのは、岡山県倉敷市真備町での堤防決壊だ。現場は高梁川と小田川が合流する手前で、本流である高梁川の水位上昇により、支流の小田川の水が流れにくくなったことが、堤防決壊の引き金となった。

半世紀前からあった計画

小田川をめぐっては、高梁川との合流地点を付け替える工事が今秋に予定されていた。小田川が高梁川と合流する位置を現在より約4.6キロメートル下流に移動させることで、合流部分の洪水時の水位低下を図るものだ。

もっと早く対策しておけば――そんな声も漏れ伝わる一方、工事は一筋縄ではいかない現実が横たわる。計画自体は50年も前から存在していたにもかかわらず、なぜ現在まで着工に至らなかったのか。

高梁川と小田川の流域は、幾度となく水害に悩まされてきた。1893年10月に上陸した台風では、岡山県全域で床下・床上浸水5万0209万戸、全半壊1万2920戸という被害に遭った。そこで東西に分岐して海に流れていた高梁川を西側に一本化し、東側は埋め立て、西側の一部は貯水池として整備された。だが、その後もたびたび洪水に見舞われたため、治水の重要性が再び浮上してきた。

そんな中、小田川の合流地点付け替え工事は2007年に基本方針が策定された。今秋に予定される工事は11年越しとなるわけだが、実は前身となった計画は昭和にまでさかのぼる。もともとは治水対策としてダム建設が計画されていたからだ。

1968年、旧建設省は柳井原堰(ダム)建設の構想を発表した。場所は今回の小田川付け替え工事完了後の合流部分に当たり、水害の相次ぐ小田川の治水と、水島コンビナートを中心に渇水にあえぐ下流地域の水源開発が目的だった。

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