一方で、日活以外の大手映画会社間では、監督・専属俳優の引き抜きを禁止する協定、いわゆる「五社協定」が締結されており、主役級俳優の確保に苦心した。
そこで日活は「ニューフェイス」と呼ばれる若手俳優の登用をいち早く進め、宍戸錠や、小林旭など昭和の映画史を彩るスターが輩出された。また、石原裕次郎や浅丘ルリ子、吉永小百合らも加えた若手俳優陣の活躍によって、アクションや青春映画が空前の大ヒット。日活だけでなく、国内映画業界も黄金期を迎える。若手俳優の起用という日活の素早い一手が、映画業界を変えたのだった。
映画製作へのこだわりを捨てず方針転換
1958年に映画館への入場者数約11億2700万人(映連調べ)とピークを迎えた日本映画界だったが、テレビ時代の到来により1965年には約3分の1に減少し、産業全体が急速に衰退。日活は系列映画館を利用した低予算作品での市場確保を進めるべく、1971年に成人映画「日活ロマン・ポルノ」の製作を決断する。この決断が他社との差別化につながり、以降の業績を支えることとなるが、その一方で多くの専属俳優や制作スタッフが会社を去って行った。
しかし、この時会社に残った若手スタッフや活躍の場を求めて集まった若い監督らが、多くの経験を積んでいく機会になったと言われる。後の平成『ガメラ』三部作(1995年~1999年、大映)で活躍する映画監督の金子修介や、『リング』(1998年、東宝)でジャパニーズホラーを定着させた中田秀夫なども、この時代に助監督として経験を積んだメンバーだ。
同時に、児童文学を映画化した作品や『戦争と人間』三部作などの大作も作り続けるなど、映画製作へのこだわりを貫いた。
現社長の佐藤直樹氏は「当時の日活には、それでも映画を作り続けていくんだという大きな覚悟があったのだと思います。五社協定やロマン・ポルノ、そして現在も、日活を生まれ変わらせてきたのは、いつも素早い行動と“若さ”でした」と話す。これが、日活の100年を貫く1つのキーワードでもある。
こうした映画製作への動きの半面、高度成長期にホテルやゴルフ場経営、不動産事業など総合レジャー産業への多角経営を進めたことで、多くの資金が固定化し経営を圧迫。映画事業も下火となりビデオソフトの販売などで業況を維持していたが、93年には会社更生法の適用を申請した。
この時、アミューズメント大手のナムコの創業者・中村雅哉氏(故人)が日活の管財人となり、再建を強く後押しし、2001年に更生手続きを終結。新生・日活としての再出発が果たされることとなった。
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