日本の近代を支えた「渋沢資本主義」とは何か 日経新聞の名物記者が考える「分岐点」

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渋沢資本主義のモデルともいえる東芝の経営が破綻し、名実共に三菱グループのリーダーと思われていた三菱重工も、航空機、船舶、原子力という、これまでの金城湯池だった公益部門から危機が火を吹いている。

2011年の東日本大震災と福島原発の事故は、日本にとって1945年の敗戦に匹敵する分岐点だった。1945年の危機では、日本社会全体で危機感が共有され、政官民が一体となって、たぐいまれな企業家精神が発露したことで救われた。そして2011年の危機に際して、日本株式会社のエンジンであった日立製作所と三菱重工が危機感の中で選び取ったのが、「経営統合」という選択肢だったと思う。乾坤一擲(けんこんいってき)の「危機からの浮揚策」だった。

三菱重工が凋落した「失われた20年」

しかし、この構想は、三菱重工の長老たちによって潰された。そして、7年たった今、財界の事情通の間では、「三菱重工は、日立に全面降伏する以外道なし」と言われている。

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そもそも東日本大震災の時点で、日立と三菱重工との経営力の格差は、誰の眼にも明らかだった。そして、三菱重工の中にはその現実を認めない時代錯誤が蔓延していた。1990年代のバブル崩壊から、アベノミクスの時代にいたる「失われた20年」とは、まさに三菱重工が凋落し、日立製作所との経営力格差がはっきりする期間だった。

バブルの最終局面である1989年に始まった平成の時代が、終わろうとしている。バブルの時代に後期渋沢資本主義の限界はすでに露呈していたが、2011年の東日本大震災の年こそ、明治以来の渋沢資本主義のプラットフォームが名実共に崩壊した年だったと思う。

2012年の総選挙で勝利した安倍晋三は、デフレ対策を織り込んだ金融政策に加え、構造改革を掲げ、その後の総選挙でも支持を得てきた。そして、その経済政策であるアベノミクスは、5年を経過して「出口戦略」なきバブルの道をたどっている。

東芝だけでなく、神戸製鋼、三菱マテリアルなど、日本の大企業の不祥事が相次いでいる。しかし、これらを個別の企業の経営管理の問題ととらえては何も見えてこない。渋沢資本主義を日本の歴史のなかに位置づけてこそ、見えてくるものがあるのではないか。それは戦後の「日本の経営」を総決算して、学び直す視点でもある。

永野 健二 ジャーナリスト

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ながの けんじ / Kenji Nagano

1949年東京都生まれ。京都大学経済学部卒業後、日本経済新聞社入社。証券部の記者、編集委員として、バブル経済やバブル期のさまざまな経済事件を取材する。その後、日経ビジネス、日経MJの各編集長、大阪本社代表、名古屋支社代表、BSジャパン社長などを歴任。共著に『会社は誰のものか』『株は死んだか』『宴の悪魔-証券スキャンダルの深層』『官僚-軋む巨大権力』(すべて日本経済新聞社)、単著に『バブルー日本迷走の原点』(新潮社)がある。

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