20年前の孫正義が「日経BP」を欲しがったワケ 上場直後のソフトバンクが目指していたこと

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1996年、日本橋箱崎のソフトバンク本社で東洋経済の取材に応じる孫正義社長(撮影:梅谷秀司)
日本経済新聞社の子会社である日経BP社。1995〜1997年に同社の看板雑誌である『日経ビジネス』編集長だった永野健二氏は1996年のある日、ソフトバンク社長の孫正義氏と、取材とは別の形で対峙することになった。永野氏が17人の経営者の光と陰についてまとめた『経営者 日本経済生き残りをかけた闘い』(新潮社)から当該部分を転載する(同書のまえがきは「HONZ」に掲載されている)。
=文中敬称略=

今振り返っても、1995年〜2000年ごろの孫正義の荒唐無稽ともいえる発言には苦笑せざるをえないことが多い。その1つが、「俺はインターネット社会の坂本龍馬になる」という発言だった。

坂本龍馬が組織した海援隊に創業期のソフトバンクを重ね合わせるなど、孫の坂本龍馬への思いは熱かった。しかし、確認してみると、どうやら大河ドラマの影響で、活字として読んだのは司馬遼太郎の『竜馬がゆく』だけだったという。志半ばで命を落とす坂本龍馬と、インターネット革命をこれからやり抜かなければいけない孫正義をどう重ね合わせたらよいのだろうと、孫を取り巻く人たちですら困惑していた。

渋沢栄一をめぐる孫正義の逸話

いま一人、孫が口の端に上らせたのは、渋沢栄一だった。「僕は渋沢栄一が資本主義の父としてやったことをインターネット社会でやる」という発言をさまざまな場で繰り返した。論語読みの渋沢栄一を語るに当たっての、さして論語を読んだことがあるとも思えない孫正義の長広舌。中国の古典に造詣の深い北尾吉孝はどういう思いで、孫の渋沢論を聞き流していたのだろうか。

この頃、ソフトバンクの怒濤のM&A攻勢が始まる。1995年には世界最大のコンピュータ見本市「コムデックス」と「ヤフー」に出資。1996年には米ジフ・デービスの出版部門や米「キングストン・テクノロジー」を買収し、豪ニューズコーポレーションと共同で「全国朝日放送(現テレビ朝日)」の株式を取得した。2000年には「ナスダック・ジャパン」を立ち上げ、「日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)」にオリックスなどと組んで資本参加した。

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