開幕6連勝!辻監督語る西武「復活」への改革 Bクラスから昨季2位、今季優勝も夢ではない
「守備練習でカーンとフライが上がって、それが外野手と内野手の間に落ちるときなんかに、『ショート!』とかって自然と声が出ちゃいますよ。僕は現役時代に内野手だったから、もう条件反射みたいなものでしょうね。監督らしく黙って腕を組んで見ていることがなかなかできなくて。試合中も、もしベンチに隠しマイクがあったら、ずーっと僕の声が入ってるんじゃないかな(笑)」
強さの条件は、組織の中での競争
1983年のドラフト2位で西武ライオンズに入団。当時の監督は、弱小と言われていたチームを就任1年目(1982年)で優勝に導いた広岡達朗氏だった。今とは違い、選手が監督と気軽に口を利くこともできなかった時代。辻自身も、「広岡さんに褒めてもらったことは一度もなかったし、声を掛けられるだけで緊張感があった」と当時を振り返る。その厳しい指導の下で、辻はプロ2年目の1985年に初めてリーグ優勝を経験した。
1986年に森祇晶監督が後を引き継ぐと、チームの雰囲気は少しずつ変わっていく。辻自身が新人から中堅に差し掛かるタイミングだったこともあり、「大人扱いしてもらった」という印象が残っているそうだ。
「森さんが監督になってから、首脳陣の敷居は低くなりましたね。上から押さえつけられる感じはなくて、選手の主体性を常に尊重してくれたと思います。選手会長だった僕に『何か選手の間で問題はないか』と森さんがわざわざ聞きに来てくれることもありましたけど、僕は『自分たちで解決できますから大丈夫です』といつも答えていました。当時は、石毛(宏典)さんや僕などが中心となって、選手自らミーティングを開いて若手を鼓舞するようなこともしていました。大人の集団でしたね」
森監督時代の1986年から1994年までの間に、リーグ優勝8回、日本一6回を経験した。その間に辻は二塁手のレギュラーとして活躍し、1986年と1988年からの3年間は全試合出場。
ベストナインに5回選出され、ゴールデングラブ賞を8回受賞し、1993年には首位打者に輝いた。3番打者・秋山幸二と4番打者・清原和博による“AK砲”といった派手な話題ばかりが取り沙汰されたが、辻も確実な守備力と走力でチームの黄金時代を支えた。
「あの頃の西武の強さの理由は、選手の力、総合力がほかのチームと比べてもずば抜けていたことじゃないですかね。
まず、我々野手から見ても、『俺たちが1点とればあいつらが抑えてくれる、大丈夫』と思えるピッチャーがそろっていた。ピッチャー陣も、『このくらい頑張っておけば、あとはあいつらが打ってくれる』と思っていたはずです。年齢的なバランスもよかったし、走る人、長打を打つ人と、選手のバランスもとれていた。面白いチームでしたよ」
1987年、読売巨人軍との日本シリーズでは、まさに1点をとりに行く野球で日本一になった。1990年の日本シリーズで再び巨人と対峙するが、リベンジに燃える彼らを4勝0敗で撃沈させた。当時、テレビの全国中継がなかったパ・リーグ球団には、「打倒セ・リーグ」「打倒巨人」という執念があったと言われており、これらの日本一達成もその気迫が生んだものかと思われたが――。
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