五木寛之「孤独死は恥ずかしいことではない」 日本人よ、根無し草のように孤独であれ

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「大丈夫ですよ、安心してください。天国に行けますから」といわれるよりも……、まず「いま痛いのをなんとかしてください」って思うものです、人間は。

「死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり」

――五木さんは、体の不調の「自覚症状がある」と書かれています。死を意識する瞬間はありますか。

(写真:奥西淳二)

それは10代の頃からありましたね。戦争中を生きていますから。

少年航空兵などでできるだけ早く軍に入って、特攻隊のように10代のうちに国のために死にたいと、心からそう思っていました。

毎晩、寝る前には、自分が飛行機の操縦桿を握って敵の空母に突っ込むところを考えて、「操縦桿を捻って逃げないか」「ひょっとして真っ直ぐ突っ込めるか」って気にかかってました。

「死」に関しては真剣に、自分を犠牲にして国に奉じると思い込んでいた。だからこそ、戦後の反動が大きかった。

――ひるがえって、今は「死」を意識しますか。

「死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり」。人間、何がどうなるかは本当に分かりません。

突然死する人もいるし、徐々に終わっていく人もいる。だから「働ける間は働こう」って思っています。

はなから「孤独死を目指そう」とかは、そんなに考えてはいないですけどね。でも、できるだけ周りに世話をかけずに亡くなりたいとは思います。

孤独死は悪いことじゃないし、理想ではある。古代インドでは「遊行期」といって、人生の終わりを悟る年齢になったら家族や村の人とも別れ、ガンジス河のほとりに向けて旅立っていました。

そういうヨボヨボのおじいさんがやってくると、よその村の人がお茶を出したり、木陰に休ませてあげたりしていたそうです。

日本で言えば、四国の「お遍路さん」にお茶を出す。お遍路も、本当は死への旅立ちなんですよね。死に装束で歩いて旅をするわけです。

五木寛之氏の近著『デラシネの時代』(書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします)

――そもそも「生きる」ということは、死に向かって歩いているということ。

僕は「流されゆく日々」というエッセイを(日刊ゲンダイで)連載していますが、これは石川達三さんが雑誌『新潮』で連載していた「流れゆく日々」から名前をとりました。

時代は流れていく。流行もどんどん変わっていく。でも、「自分はしっかり足を踏ん張って、不動の位置を保って、変わらないぞ」と。「流れゆく日々」は、そういう決意で書かれたものだった。

でも、僕は「流れて行くんだったら、塵や芥と一緒に自分も海に向かって流れて行こう」と思った。それで「流されゆく日々」というエッセイをはじめました。

どっちがいいとか、悪いとかっていうことじゃない。それはそれで、生き方として僕は尊敬しています。

――自分の生き方を確立しつつ、他者の生き方を尊重することが大事。

長野の善光寺に行ったとき、1つの和歌を知りました。

「五十鈴川 清き流れはあらばあれ 我は濁れる水に宿らん」

これは「清き流れ」を否定してるわけじゃない。でも、「私は濁れる水にあって、ボウフラのように生きるぞ」という、仏の強い決意がそこに出ている。

「清き流れ」を尊敬した上で、「濁れる水」の生き方を確立する。相手を認めるって大事なことなんです。

(文:吉川 慧)

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