五輪実況と「戦時中の標語」には共通点がある 国民に刷り込まれる「単純な言葉」の数々

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しかし、視点を変えれば、敗者もこのすべてを知っているのですが、(勝者は「運がよかったんです」と言っていいけれど)敗者は、「運が悪かったんです」と言ってはいけないことも知っている。しかも、「運がよかった」と語る勝者は、さらに賞賛され、もし敗者が「運が悪かった」と語れば、さらに蔑まれる、私はテレビ画面を見ながら、いつもこの残酷さをかみしめています。

テレビに出て語ることが要求されるのは、勝者のみであり、敗者は徹底的に言葉を奪われる。この連載では、このところ「言葉」をめぐって問題を提起していますが、以上の問題を、もう少し言葉につなげてみましょう。オリンピックはどう考えても、国家間の一種の戦争であり、だからこそ、これほど「盛り上がる」のだと思いますが、本当の戦争同様、言葉が粗雑になっていくことが気になる。

戦争に突入した国家では、反戦運動は鎮圧され、反戦的言論も弾圧されるのが普通です。そして、「欲しがりません、勝つまでは」とか「一億玉砕」という単純なスローガンが刷り込まれる。戦争は、人命を殺すのみならず、言葉を殺す。言語の繊細なはたらき、その繊細な感受性を殺すのです。

五輪実況で飛び交う粗雑な言葉

同様に、オリンピックの報道では、リポーターの大ざっぱな(不正確な)言論が飛び交う。たとえば、スキーの女子ジャンプで銅メダルを獲得した高梨選手の快挙を報道したあるリポーターは「日本中のすべての人に勇気を与えてくれました」と絶叫していましたが、私は彼女が銅メダルをとっても「勇気をもらった」おぼえはありません。フィギュアスケートで羽生選手が金メダルを取ったときも、「日本中が喜びに浸っている」と報道されましたが、端的に誤りです(少なくとも、私はそうではありませんでしたから)。

そして、こういう「あたりまえ」のことを言うだけで、ひどく偏屈に思われてしまうというのもヘンなこと。私はただそれほど関心がないだけであり、先に述べたように勝者に対して一定の「思想」がありますので、「勇気をもらう」こともなく、「喜びに浸る」わけでもないだけです。

哲学は「言葉」だけが武器ですし、それを錆びないように絶えず研ぎ澄ましていなければならない。そして、私がこの言い方も気に入らない、あの言い方も気に入らないと訴えると、「そんなに目くじら立てずに、さらっと聞き流せば」と助言してくれる人が多いのですが、そうはできない。「みんな」と同じ言葉遣いを受け入れてしまうこと、それこそ哲学の「安楽死」だと確信しています。

もちろん、ただちに気に入らない言葉遣いの主に向かって攻撃を開始するわけではない。しかし、四六時中、念入りにチェックすることだけは怠らないのです。私は、20年前に人生を<半分>降り、10年前に「哲学塾」を開き、翌年大学を辞めたのですが、その最も大きな理由は、この「言葉」の問題と言っていいでしょう。

組織では、定型的な言葉を使わなくてはならず、結婚式や葬式をはじめ、ひんしゅくを買う言葉を使うことは禁じられているし、沈黙さえ許されない。そこで、大げさに言えば、哲学を続けるか否かの瀬戸際まで追いつめられ、「世間語」の蔓延する社会(世間)から脱退することにし、本当に思っていることしか語らなくていい場としての「哲学塾」を作ったのです。

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