そして1970年に、鶴岡一人によってボーイズリーグが設立される。これまでの少年野球が主としてアマチュア野球出身者によって指導されていたのに対し、ボーイズの指導者にはプロ経験者も多数いた。プロ・アマの垣根が高かったこの時期、鶴岡は引退した選手のために指導者の仕事を作りたいとも思っていた。たとえば、鶴岡監督の下、南海でプレーした黒田一博は、大阪市住之江区にボーイズリーグのオール住之江を設立。多くの選手を育てたが、その1人が、次男で広島、ヤンキースなどで活躍した黒田博樹だ。
1972年には中学生を対象にしたリトルシニアも生まれる。他にポニーリーグ、ヤングリーグなども生まれる。それ以後、プロ野球に進むようなエリート野球少年の多くは、こうした少年硬式野球経験者になっていく。なかでもリトルシニアとボーイズリーグはチーム数やプロ選手輩出の実績でも群を抜いている。
このコラム『「夏の甲子園」の陰で危うい高校野球の将来』(2017年8月6日配信)で以前にも触れたが、小中学生の軟式野球人口が激減しているのに対し、リトルシニア、ボーイズリーグなどは横ばいか微減でとどまっている。しかし小学校の野球人口の激減によって、ボーイズ、リトルシニアなどの将来にも黄信号が灯るようになった。
ボーイズリーグの一員である堺ビッグボーイズは、そういう現状にOBの筒香嘉智とともに警鐘を鳴らしたのだ。
自分が今している指導は子どものためになっているか?
瀬野竜之介は、自身が代表を務める堺ビッグボーイズの1期生だ。
「元は別のボーイズのチームで野球をしていたのですが、そのチームの監督さんは酒を飲んで指導をすることもあった。体罰もあった。
うちの親父がこれを見て”そらあかんやろ”と言いに行ったんですが、反対に”気に入らんのなら辞めてくれ”と言われた。
そのとき、私だけじゃなくて、20人くらいが一緒に辞めた。14歳のときです。
親父は私一人なら、他のボーイズに入れようと思っていたのですが、20人もいる。じゃ、チームを作ろうか、ということになって、堺ビッグボーイズを設立したんです。うちは不動産業をやっていた関係で、グラウンドもお借りすることができた。私は1期生として野球を続け、大学まで野球をやって、その後堺ビッグボーイズのコーチ、監督になりました。
その頃はご多分に漏れず、ハードな練習をガンガンやりました。当時の選手のなかには、怪我や故障をした子もいます。そして私が監督に就任して8年目と9年目に全国優勝をしました。
でも、その頃からいろいろ疑問に思うことがあって、一時期チームを離れたんです。外側からチームを見ると、いろいろ気がつくことがありました。
自分のチームも含め、強いチームほど、プロ野球などで活躍するような選手が出ていない、ということです。ボーイズで好成績を挙げたチームの選手は、なんとか甲子園くらいまではいくが、そのあとが続かない。野球を辞めたり、学校を中退したり、手術する子もいる。これは何でかなあ、と思うようになった」と瀬野は振り返る。
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