ナイキの知られざる誕生秘話はここまで熱い 2018年の今だからこそ響く創業者の言葉

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ただし、奇跡を起こすためには幾多の障害を乗り越える必要があったともいえるわけで、たとえば資金繰りの苦労はその典型だ。しかもそれだけでなく、好調な売り上げ実績を軸に良好な関係が保たれていたはずのオニツカとの関係は、やがて決裂しはじめる。

新たに日商岩井とのビジネスを進めようとしていた矢先、オニツカの担当であるキタミが、ブルーリボンから別の代理店に乗り換えようとしていることが判明したのだ。

私は厄介な電話をもらった。東海岸の販売店がオニツカから直営の販売店にならないかと打診を受けたそうだ。(中略)私は体が震えはじめ、心臓が激しく鳴っていた。新たに更新の契約を結んだオニツカが、それを破棄しようとしているのか。(235ページより)

残念ながら交渉はうまくいかず、結果的にブルーリボンはオニツカから最後通告をたたきつけられることになる。ちなみに、このとき憔悴する著者に手を差し伸べたのは日商岩井のスメラギだった。

「質のいいシューズを作るメーカーは日本にたくさんありますから、そこを紹介しましょう」

そう声をかけてくれたスメラギとの、そして日商岩井との関係は以後も続くことになる。しかし、オニツカという後ろ盾を失った著者が選択したのは、ほかのメーカーを紹介してもらうことではなく、新たなブランドを立ち上げて独自のシューズを作ることだった。

ナイキ誕生の瞬間の貴重な記録

かくして1971年、ナイキが誕生することになる。シューズが完成し、流線型のおなじみのロゴができ、次は名前だ。参考までに書き添えておくと、数十種のアイデアの中から選び抜かれた最終案は「ファルコン」と「ディメンション・シックス」だったのだそうだ。そのどちらかに決まっていたとしたら、現在、そのブランドは存続していただろうか? 少なくとも個人的には、ファルコンなんていう名前のブランドには心惹かれないような気がする。

決定の日が来た。カナダはすでにシューズの生産を始めていて、日本にいつサンプルが流出してもおかしくない。発送の前に私たちは名前を決めなければならない。しかも搬送の日に合わせて広告を出す予定だから、グラフィックアーティストにも名前を伝えなくてはならない。最終的にはアメリカ特許局に書類も提出しなければならない。
ウッデルがオフィスにやってきて「時間切れだ」と言った。
私は目をこすった。「わかってるよ」
「どうなるんだ?」
「さあね」
私は頭が割れそうだった。全部の名前が頭の中に入ってごちゃ交ぜになっている。ファルコンベンガルディメンションシックス。
「実は……もう1つ案があるんだ」とウッデル。
「誰の?」
「今朝ジョンソンから電話がかかってきた。昨晩夢の中で新しいネーミングが浮かんだらしい」
私は目を丸くした。「夢だって?」
「彼はまじめだよ」とウッデル。
「いつだってそうさ」
「真夜中にハッとしてベッドから起き上がると、目の前に名前が浮かんでいたんだって」
私は身を乗り出して聞いた。「何て名前だ?」
「ナイキだ」
「はっ?」
「ナイキ」
「綴りは?」
「NIKE」とウッデル。
私は黄色いリーガルパッドにそれを書いた。
ギリシャの神、勝利の女神の名だ。アクロポリスの丘、パルテノン神殿、アテナ・ニケ神殿。私は旅を振り返った。簡潔で短い。(260ページより)

引用が長くなってしまったが、このやりとりは簡略化することができない。私たちにとっても重要なブランドである、ナイキ誕生の瞬間の貴重な記録だからだ。

次ページ終章では
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