「喜劇の時代」を生きるための哲学と民主主義 今、世界で最も注目される天才哲学者が語る
私たちは「喜劇の時代」を生きている
1989年にアメリカの政治学者フランシス・フクヤマによる有名な「歴史の終わり」という宣言がありました。フクヤマが言わんとしたのは、これから先、永遠にアメリカ的な自由主義の民主主義が唯一の選択肢になる、ということでした。ですが、それは間違っていました。「歴史の終わり」は、まだ来ていないのです。私たちが生きているのは、「歴史の終わり」の終わりの時代でしょう。つまり私たちは歴史の始まりの時代に生きているのです。
人々の欲望の噴出は、むしろ<近代>以前のような様相を呈しています。現在の状況はとても原始的で、古人類学的とも言える反応を多くの場面で目にします。人々は、より原始的になったのです。今起きていることのうち多くのことが、まるで中世の出来事のようです。歴史の教科書に載っているようなことばかりなのです。マルクスが言ったように、まさに「歴史は繰り返す。最初は悲劇として、2度目は喜劇として」ですね。今、私たちは「喜劇の時代」に生きているのかもしれません。
では、こんな時代をどうすれば乗り越えられるのでしょう? 歴史の概念について、再び振り返り、熟考すればいいのです。実際、私たちには、今こそ、新しい歴史の哲学が必要なのです。今いかに哲学が軽んじられているか、具体的に申しあげましょう。たとえば、ドイツのアカデミズム世界で、哲学が学ばれていたとしても、歴史哲学の教授の職は1つもありません。ドイツでは、誰一人として歴史の哲学を研究してはいないというわけです。最悪です。
アメリカのシステムでも同じです。歴史の哲学の研究者は2、3人はいるかもしれませんが、それは歴史が終わる可能性もあるという幻想の結果で、ほとんど研究者はいません。歴史が終わることはありません。今は妙な形で……、漫画かおかしな空想物語のような形で歴史が再現されています。たとえばトランスヒューマニズム、すなわち、科学技術の力によって人間の精神的、肉体的能力を増強し、ケガ、病気、老化なども克服しようとするものや、あらゆる問題をロボットで解決しようというもの。人工知能やロボットの論文は実は、再び歴史を終わらせようとする試みです。新たな神学です。
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