半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す

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――『賊軍の昭和史』でもおっしゃっていますが、軍人になった人も多かったようですね。

前途がなかなか開けない賊軍の士族たちの多くは、軍人になりました。

いちばん典型的なのは松山藩です。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で有名な秋山兄弟の出身地です。松山藩というのは四国ですが賊軍藩です。ただ、弱い賊軍で、わずか200人足らずの土佐藩兵にあっという間に負けて降伏しました。

その松山藩の旧士族の子弟は苦労したんです。秋山兄弟の兄の好古(よしふる)さんは家にカネがないから陸軍士官学校へ行った。士官学校はタダですからね。あの頃、タダだった教育機関は軍学校と師範学校、鉄道教習所の3つでした。

弟の真之(さねゆき)さんは、お兄さんから言われて海軍兵学校へ入り直していますが、兵学校ももちろんタダでした。

この兄弟の生き方を見ると、出世面でも賊軍出身の苦労がよくわかります。好古さんは大将まで上り詰めますが、ものすごく苦労しているんです。真之さんも苦労していて、途中で宗教に走り、少将で終わっています。

賊軍藩は、明治になってから経済的に貧窮していた。だから、旧士族の子弟の多くは学費の要らない軍学校や師範学校へ行った。

その軍学校を出て軍人になってからも、秋山兄弟と同様に賊軍出身者は、立身出世の面で非常に苦労しなければなりませんでした。

『賊軍の昭和史』で詳しく触れましたが、日本を終戦に導いた鈴木貫太郎首相も賊軍出身であったため、海軍時代は薩摩出身者と出世で差をつけられ、海軍を辞めようとしたこともありました。

敗者は簡単には水に流せない

――負けた側の地域は、差別された意識をなかなか忘れられないでしょうね。

私は、昭和5(1930)年に東京向島に生まれましたが、疎開で昭和20(1965)年から旧制長岡中学校(現長岡高校)に通いました。有名な『米百俵』の逸話とも関係する、長岡藩ゆかりの学校です。

『賊軍の昭和史』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

長岡中では、薩長と戦った家老・河井継之助を是とするか、恭順して戦争を避けるべきであったのかを友人たちと盛んに議論しました。先ほども言いましたように、明治に入っても官僚になった長岡人はほとんどおらず、学者や軍人になって自身で道を切り開いていくしかなかった現実があり、私の世代にも影響していました。

私よりかなり先輩になりますが、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六海軍大将も、海軍で大変苦労しているのです。

「賊軍」地域は、戊辰戦争の敗者というだけでは済まなかったということです。賊軍派として規定されてしまった長岡にとっては「恨み骨髄に徹す」という心情が横たわるわけです。

いまも長岡高校で歌い継がれているようですが、長岡中学校の応援歌の1つ『出塞賦(しゅっさいふ)』に次のような一節がありました。

「かの蒼竜(そうりゅう:河井継之助の号)が志(し)を受けて 忍苦まさに幾星霜~」

勝者は歴史を水に流せるが、敗者はなかなかそうはいかないということでしょう。

半藤 一利 作家・原作・『昭和史』平凡社刊

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はんどう かずとし / Kazutoshi Hando

1930年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋に入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役などを経て、作家となる。歴史探偵を自称する。1993年、『漱石先生ぞな、もし』(文藝春秋)で新田次郎文学賞、1999年に『ノモンハンの夏』(文藝春秋)で山本七平賞、2006年に『昭和史 1926ー1945』『昭和史 戦後篇 1945ー1989』(平凡社)で毎日出版文化賞特別賞を受賞。2015年、菊池寛賞を受賞。その他の著書に『決定版 日本のいちばん長い日』『あの戦争と日本人』(文藝春秋)、『幕末史』(新潮社)、『世界史のなかの昭和史』(平凡社)、『歴史と戦争』『歴史と人生』(幻冬舎)など多数。2021年1月死去。

 

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