学校で身に付けたものはそんなに多くない
──原点に立ち返り「学び」を論じていますね。
自分が育ってきたプロセスを考えても、学校で育ててもらった実感がない。学生時代は僕にとって戦後のいい時代で、友人ができたことは大きな意味があったが、学校で身に付けたものはそんなに多くない。教育に世間が考えているほどの力があるのか、教育はそんなにいいものなのか、との疑問が、教育学を長年手掛けながら消えることはなかった。
古代までスパンを広げて眺めると、歴史上に優れた人物はたくさんいる。そういう人物はまず学校に行ってない。学校に行かなければ優れた人物は育たないと考えるのは現代的な幻想だ。人物を育てたのは何だったのか。その時代、時代においての向き合い方だったのではないか。
──向き合い方?
たとえば僕の父はかっぽう料理店の息子で、小学校しか出ていない。板前修業を強いられたが、当時生まれたばかりのラジオにほれ込み自作した。物づくりに執着があって、家を出てやりたかった機械いじりに転じ、戦前のテイチクの録音技師になって、戦後はレコードを作る仕事を手掛けた。
仕事のことを父から直接聞いたことはない。ただ、五味康祐という作家が雑誌にレコード製造技術について書く中で、ドイツ・ハルモニア・ムンディのレコードが随一としながら、1人だけ日本にも任せられる人物がいると紹介した。それが私の父親で、後で父本人に聞いたら、五味が会社に来たことがあったとか。
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