人と違うことを、恐れない子供を育てる
今回の学生さんのご両親は、「人と違うことを恐れるな」「人と違っていていい」と教育され、他人に流されると厳しくしかられたと書いておられます。戦争を知らない世代のご両親ですが、他人に流されることの危険性やバカらしさを、熟知しておられての教育方針だったとお見受けしました。
「厳しくしかられた」という表現に、他人に流されないことや自分の人生は自分で責任を持つということの重要性に、人一倍敏感でおられたことが感じ取れます。私もできなかったことですが、このような大切な教育ができている家庭は、残念ながらまだまだ少数派ではないでしょうか。
我慢だけでなく、時には反対する必要性
実は私が受けた家庭教育は、「女の子はまず我慢しなさい」というもので、周りの大人たちの顔色ばかりを見て育ちました。教育効果は絶大で、私の行動を起こす判断基準は、それが周囲の和を乱すものではないかどうか、なのでした。
これは決して褒められた生き方ではありません。込み入った人間関係がある大家族の中での、和を乱さない行動とは、つねに他人に流された、自分に無責任な生き方になるのは必定でした。自分以上に自分を知る人はいないわけですから。
そんな私が、他人に惑わされない価値基準をそれなりに持つようになるまでには、ほかの人よりも努力が必要でした。迷わず善悪の判断を下していた単純な思考経路が、反対意見や多角的な視野で学ぶプロセスを通して、価値基準もかなり変遷し、未熟なりにも今に至っています。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」や「勝ち馬に乗っている」だけでは獲得できないものだと、経験から得ました。
政治家の、中身はなくとも威勢よく聞こえるワンフレーズが、何かやってくれそうだという「ふんわりとした民意」となって支持率に結び付く昨今に、「他人に流されるな」「意見が他人と違うことを恐れるな」という言い古された言葉が強い警告に響くのは、世相を反映しているのかもしれません。
コラムの冒頭で触れました偶然が重なったところで、「少年H」の勇気を、今一度学ぼうと思っています。
※ ミセス・パンプキンさんへの相談はこちら
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