(私が在籍した)陸軍幼年学校ではまったくなかったが、新兵などをむちゃくちゃに殴る。殴りに殴って何も考えない、考えられないようにしてしまう。それが強い兵隊を作ると思い込んでいる。現代戦は自分で考えないとできない。それが苦手だから、上が考えて下は命令に従う。自衛隊の「日誌問題」も同じなのだろう。今、自衛隊は米国式ではなく日本式に戻っているのか。
――この本は、陸軍幼年学校の日々から始まります。
満14歳、昭和20(1945)年に旧制中学から入学した。当時、陸軍幼年学校は全国に6つあった。ジャズ評論家だった相倉久人とは東京で一緒。政治家の宇都宮徳馬はじめ、短い間だったが多士済々だ。作家の三好徹も同じ年代の幼年学校で、向こうは名古屋だった。
中学のとき、軍需工場に働きに行きながら、これからどうするのが得か考えた。幼年学校だったら陸軍士官学校、陸軍大学校と進んで、大将にもなれるかもしれない。19歳になれば徴兵だ。その年までには兵士ではなく、将校になっていよう。これが当時、私の頭にあったすべてだった。
占領軍支配下の突然の平和
――4月に入学、8月に終戦です。この本では終戦後が詳しい。
戦後すぐの自分の育った世相についてよく覚えている。1945年は本当に特別な1年だった。8月14日までは戦争をしていて、15日から後、12月31日まで4カ月半は占領軍支配下の突然の平和だ。
戦後はゼロから始まったというが、そうではない。終戦の年でも1カ月に1003機の軍用機を造り、仕事ができる力があるのに、仕事がなくなったというのが正確なのだ。日本全体が飢餓状態にある一方で、10月には占領軍の兵士を迎え銀座にダンサー150名の千疋屋キャバレー、400名のオアシス・オブ・銀座などが先頭を切ってオープンしている。
僕は1946年4月に中学4年に戻ることができた。ただ、アルバイトの日々だ。学校は東京・大井町にあった。町工場がいっぱいの所だ。日本製品はいいとの定評を得るずっと前のことで、その頃はみんなでもっぱらインチキをした。すぐ切れる電球に会社のゴム印を押すアルバイトとか。中身は石の缶詰が売られてもいた。
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