早稲田大に進学しても“二足の草鞋(わらじ)”で競技を続けた。本人は競歩をやる気持ちはなかったものの、インカレなどの対抗戦では小林の力が必要だったからだ。ただし、中途半端な挑戦では満足できなかった。2年時の日本インカレ(9月)が終わると、走りだけに集中した。しかし、厳しい現実を突きつけられる。
「これでダメだったら箱根はあきらめよう」と臨んだ大学3年時5月の日体大長距離競技会5000mで15分30秒近くかかったのだ。「大学では自分の走りは通用しない。競歩しか道がなかった」と“決断”する。5000mの自己ベストは14分52秒。箱根を目指すには実力が不足していた。大学の1学年上に大迫傑(Nike ORPJT)という学生長距離界のエースがいたことで、“才能”の差を感じたのかもしれない。
宙ぶらりんの状態から、小林のハートに火をつけたもの
箱根駅伝をあきらめたものの、小林は熱い思いを完全に断ち切ることはできなかった。競歩に完全移行しても宙ぶらりんな状態で、「競歩やればいいんでしょ」という感じだったという。しかし、同年8月のモスクワ世界選手権で同学年の西塔拓己(東洋大/現・愛知製鋼)が6位入賞を果たしたことが、小林のハートに火をつけた。
小林にとって西塔は高校時代からのライバル。2位に入ったインターハイで敗れた選手でもある。同学年のウォーカーに元気をもらったと同時に、「自分は何をやっているんだ!?」という気持ちがわいてきたという。
「高校時代に争っていた選手が世界大会で入賞しているのに、僕は箱根をあきらたにもかかわらず、競歩を本気でやるわけでもなく、世界どころか日本で何番なのか。そのときに、競歩をがんばろうと吹っ切ることができました。まずは本気でやって、学生のなかで上位を目指す。そうやっているうちに上(日本のトップ)が見えてきたんです。本当は大学で競技をやめようと考えていたんですけど、東京でのオリンピック開催が決まり、東京で勝負したい、金メダルをとりたい、と思うようになりました」
学生時代は20km競歩で世界を目指していたが、社会人2年目の昨季は全日本競歩高畠大会(10月)で初めて50km競歩に挑戦。日本歴代4位となる3時間42分08秒の好タイムで制して、初の世界大会代表をゲットした。
男子50km競歩は1932年のロサンゼルス五輪で採用されて以来、1976年のモントリオール五輪を除き、実施されてきた伝統種目。しかし、国際オリンピック委員会(IOC)は、女子にない、競技時間が長い、ロシア勢のドーピング違反などの理由から問題視。一時は、2018年以降の世界選手権、五輪から除外されるかもしれないという「廃止騒動」に揺れていた。日本にとっては、2020年の東京五輪でも“メダル”の期待が高い種目だけに、その先行きが心配されたが、国際陸連の理事会で議論された結果、2020年東京五輪までは実施されることが決定。小林の“夢”は継続された。
「50km競歩は約3時間40分をかけた駆け引きが魅力です。日本にとっては、世界大会で2年連続してメダルを獲得している種目ですので、ロンドンでは先輩方に続けられるように、入賞、メダルを目指してがんばっていきたいです」
ロンドン世界選手権競歩日本代表選手発表会見式後の囲み取材の最後に、筆者が「競歩に転向して良かったか?」と尋ねると、小林からは「ちょっと難しいですね。何とも言えないです」という答えが返ってきた。それでも、別の種目とはいえ、憧れだった箱根駅伝を大きく上回る舞台に立つ。それは本当にすばらしいことだと思う。
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