「虐殺者」織田信長は、ここまで残酷だった そこまでやる?「本当の姿」を知っていますか
Q7.信長は、ほかの戦国武将に比べても、特に残酷でしたか?
残酷だったと思います。もちろん、戦乱の時代なので残酷でない武将はいませんが、それでも信長の行った殺戮の数は、戦国時代でも「突出」しています。
Q8.信長が「突出して残酷だった」理由は?
本人の性格によるところもありますが、幼少期から織田家の家督を継ぐまでのあいだの苦労や、それ以降の尾張国統一に至るまでの「周囲の人間に対する不信感」といった心労がストレスとなり、彼の「残虐性」を大きく加速させた可能性があります。
また、この時代はほとんどの戦国大名にとって、「自国の領土を守ること」が戦いの主な目的でした。そのため「局地的な紛争」がほとんどで、大量の死傷者は出ませんでした。
ところが、信長は15代将軍、足利義昭を奉じて上洛することを決心した時点から、「天下統一」「天下布武」つまり武力により天下をわが身におくことを目的としたため、つねに「他国への強引な侵攻」が続きます。
その結果、必然的に戦いの規模は「全面戦争」にならざるをえず、多くの犠牲者を生むことになったのです。
歴史を学ぶことは「人間の本質」を知ること
ある正月、信長は家臣を集め、新年を祝う酒宴を開きました。宴もたけなわの頃、彼は「今日は珍しい趣向がある」と言い、広間に何かが運び込まれます。
家臣たちが目を凝らすと、それは金箔に覆われ黄金色に輝く「ドクロ」。前年に滅ぼした宿敵、浅井・朝倉氏の首を加工したものでした。
家臣たちは言葉を失ったまま、その様子をじっと見守っていると、信長はドクロに酒を注ぎ、家臣に飲むことを強要。拒めない彼らは身を震わせながら次々と「ドクロの杯」に口をつけたといいます。
その一方で、信長には「優しい人柄」を表すエピソードも残されています。
秀吉の妻「ねね」の訪問を受けた信長は、彼女から夫の女性問題に関する悩みを聞かされます。ほどなくして信長は、彼女に手紙を送り、「まったくとんでもない男だ。あなたほどのすてきな女性に、あの禿げ鼠(秀吉)はもったいない!」と彼女を励ましたというエピソードも残されています。
織田信長は、信頼していた部下の明智光秀に裏切られ、「本能寺の変」で生涯を閉じます。しかし、織田信長という「偉大な英雄」の登場なくして、現代に続く日本の歴史はまず考えられないでしょう。
そんな信長にも、人間として「いろいろな面」があったのも事実です。人間は「複数の顔」をもつ多面的な存在で、歴史を学ぶことはそうした「人間の本質」を知ることでもあります。
歴史には、小説以上に「人間を考える材料」が満ちあふれています。ぜひ日本史を学び直すことで、「身近な人をより深く知るきっかけ」にしてください。
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