「虐殺者」織田信長は、ここまで残酷だった そこまでやる?「本当の姿」を知っていますか

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

希代の天才であり、残虐な危険人物

Q1. 織田信長はどのような人物ですか?

1534年、尾張守護代の庶流に生まれました。幼少期より破天荒な素行を繰り返しますが、しだいに頭角を現し、ついに家督争いに打ち勝って尾張を統一します。

その後、「鉄砲の導入」や「楽市楽座の推進」など慣習にとらわれない斬新な手法で天下統一に邁進するものの、1582年、家臣である明智光秀の謀反によって、京都の本能寺で生涯を閉じました。

Q2. 有名な「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」の歌にある「強引な性格」は本当ですか?

本当です。知恵を絞って「鳴かせてみせよう」の豊臣秀吉、タイミングを待ち続けた「鳴くまで待とう」の徳川家康に対して、信長のやり方は性急で強引さが目立ちます。

たとえば信長は、かなりの「骨董コレクター」で、その収集には余念がありませんでした。

特に、「名物」と呼ばれる最も価値の高いものについては、その所有者の意志がどうであれ強引に供出させたりカネで買い取ったりと、多くの名物を自らのコレクションにしています。

それらに加えて、後述するように、自らに従わない者に対しては「大量虐殺」も繰り返しています。

Q3. 「神をも恐れぬ豪胆さ」だった?

神仏への信仰がなかったわけではありませんが、彼は死後の世界や心霊など「理屈の通らない迷信のたぐい」にはかなり懐疑的だったようです。

実際に、彼が建築にかかわった安土城や旧二条城の石段や石垣には、破却した「墓石」や「石仏」なども資材として用いられていました。当時は現代よりも祟りや怨霊が一般に信じられていたことを考えると、こうした行為は衝撃的です。

Q4.人間に対しても「残虐だった」のですか?

はい。信長は「恨みを抱いた相手」にはいっさい容赦しません。

たとえば、かつて信長を鉄砲で暗殺しようとして失敗し、指名手配中だった「杉谷善住坊(すぎたに・ぜんじゅうぼう)」という男が3年後、ついに逮捕されました。

このとき、信長は通常の斬首ではなく、体を頭だけ出した直立状態で道端に埋め、その首を「行き交う人にノコギリで引かせて殺す」という残忍な処刑を行いました。

またあるとき、宣教師が連れてきた黒人を見て、その「黒さ」に疑念をもった信長は、黒人を裸にして家臣にその背中を「剣山」や「金タワシ」などで削らせたという記録も残っています。真偽は不明ですが、本当ならかなりの「残虐な行為」です。

Q5. 信長は「大量虐殺」も行いました……

そのとおりです。信長は数々の戦いにおいて、私たち現代人の想像を超えるような「残虐性」を発揮しています。

次ページ「そこまで」やるのか……
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事