「虐殺者」織田信長は、ここまで残酷だった

そこまでやる?「本当の姿」を知っていますか

織田信長による「残虐行為」のうち、数ある中から代表的なものをいくつか挙げてみましょう。

いったい「何万人」が被害に遭ったのか

【1】 長島一向一揆殲滅

1574(天正2)年7月、それまで2度にわたり信長の侵攻を妨げ、彼の弟や重臣が失われるなど織田勢を苦しめた伊勢長島の一向一揆に対し、信長はほぼ総動員に近い大軍を率いてこれを殲滅しました。

籠城する一揆軍に対し、包囲による干殺しのほか、最後は城をまるごと焼き討ちし、男女二万数千人が殺害されたといわれています。

【2】 越前一向一揆殲滅

1575(天正3)年8月、朝倉氏滅亡後の越前(福井県)では一向一揆が台頭し、信長の支配が及ばなくなっていたため、再び越前を取り戻すべく、信長は侵攻を開始します。

このときの戦闘で一揆勢約2000人が討ち取られ、さらに捕虜となった1万2000人も容赦なく処刑されたといわれています。

【3】天正伊賀の乱

1581(天正9)年9月、信長からの支配を拒み自主独立を掲げる伊賀惣国一揆に対し、信長は大軍を率い、伊賀(三重県西部)へ至るあらゆるルートから侵攻を開始しました。集落や寺院はことごとく焼かれ、逃げ場のない人々は一方的に殺戮されました。

一説では、「伊賀全体の人口9万のうち、およそ3万余が殺害された」といわれています。

Q6.よく知られる「比叡山焼き討ち」は?

1571(元亀2)年9月、越前(福井県)の朝倉氏に協力して反信長連合に加担していた比叡山延暦寺は、信長からの再三の中立勧告に背き続けたため、ついに攻撃を受けます。

このとき、すべての堂宇は放火され、寺の僧侶はおろか山麓の町から避難してきた一般信徒も含む多くの人がことごとく殺害されたと伝えられます。

死者数は『信長公記(しんちょうこうき)』で数千人、宣教師フロイスの書簡では約3000人、貴族の日記にも3000~4000人とあり、多くの人命が失われたと記されています。

近年の研究調査では、文献に見られるほどの大規模火災を証明する遺構が見当たらず、「もっと小規模なものだったのでは」という疑問の声も上がっていますが、規模はともかく、古くから「都の護り」として崇められてきた比叡山をも恐れず、焼き討ちしたことは事実でしょう。

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