「ジプシー」が見つめるヨーロッパ難民危機 「バルカンルート」に漂う難民たち<中編>
「そもそも彼らは難民なんかじゃない。働くためにドイツに住みたい移民か、ただの出稼ぎだろ」
市場のロマの商売人たちは今回の中東“難民”について、かつてこの町にやって来たコソボ“難民”とはまったく違うと説明する。
コソボ紛争後、シュトオリザリにいた難民のほとんどはロマの人々だった。はるか東方からバルカンに入り、いつしかコソボやバルカンの地に住み着いたロマ。もはや帰る国をアジアに持たず、西欧への移民でもない、ひたすら逃れ来た定住者のロマ難民だった。
難民と扱うか、移民としてか
セルビア・ハンガリー国境の難民キャンプで、なぜか人々の間でシリア人の評判は悪かった。
「シリア人の名前だと簡単に難民として扱われる。一緒に移動してきたのに俺たちより審査が通りやすいんだ」
もちろんシリア以外のパキスタン人やイラク人の言い分である。
たしかにEU当局の混乱は明らかだった。難民抑制の対策に、人道的保護を必要とする難民は受け入れるが、経済的理由の移民は本国に送還するとしていた。しかし、その難民か移民かを判断する態勢がなかなか整わない。
1951年に締結された「難民条約」(難民の地位に関する条約)において、難民とは「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受ける恐れがある」が条件とされる。
では、中東から来る圧倒的な数の、しかもすべからく「難民だ」と主張する人々を目の前にし、だれが迫害を受けている難民で、だれが仕事を求める経済移民なのか、ギリシャなどに急遽整備した難民認定センターだけで見極めるには限界があった。
バルカンルートの諸都市では、ある時期、ホテルに長期滞在する難民家族の姿は珍しくなかった。もともとカネを持っていた者、無理してカネをかき集めた者さまざまだろうが、着の身着のままの難民はむしろ少数派だった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら