絶頂の信長をつまずかせた「ビジョン」問題 光秀との確執の背景にもその問題が
家柄より完全な実力主義! 織田信長の人材活用術
中世の社会では「血筋」や「家柄」を重視する大名が多かった。仕事が出来ようが出来まいが、良家に生まれれば相応のポストに就くことが保障されるケースが目立ったのである。現代でいえば「コネ」による縁故入社や出世が約束されていた社会でもあったわけだが、信長は違った。
「完全なる実力主義。信長は生まれも育ちも関係なく、仕事ができるものを幹部として扱いました」と、歴史学者・本郷和人氏は話す。その代表格が木下藤吉郎、つまり後の豊臣秀吉である。一般に「百姓から天下人になった」といわれる秀吉だが、その出自には確かな記録がなく、実際には何もわかっていない。
それは明智光秀も同様だった。従来は、美濃の守護大名であった土岐氏の血筋であり、足利将軍家に仕えていたといわれてきた。だが、異説もある。信長の側近のひとり、太田牛一が光秀のことを「一僕の身(一人の従者を連れていただけ)」と記してもいるように、低身分の人物だったと最近は見られている。
だが、実力主義の信長軍団では過去など関係ない。光秀は信長に召し抱えられるや、すぐに京都の政務や防衛を任されるなど、トントン拍子に出世。並み居る家臣団を押しのけ、わずか3~4年で近江(滋賀県)坂本城の城主にまでのぼった。いかに有能な人物であったかがうかがえるだろう。