絶頂の信長をつまずかせた「ビジョン」問題 光秀との確執の背景にもその問題が

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信長がつまずいた原因とは?(写真:マット / PIXTA)
優れた経営者・戦略家であったはずの信長だが、その一方で「本能寺の変」で明智光秀の謀反に遭い、討たれてしまったことはあまりに有名だ。彼は、なぜ腹心の部下に殺されてしまったのだろうか。
CS放送・ヒストリーチャンネルで放送される「『合戦前夜~武将たちのストラテジー~』#2 長篠の戦 織田信長―うつけ的マネーの革命児―では、その背景に迫っている。経営学者の入山章栄氏と歴史学者の本郷和人氏に信長の思考や行動を分析してもらった。

家柄より完全な実力主義! 織田信長の人材活用術

中世の社会では「血筋」や「家柄」を重視する大名が多かった。仕事が出来ようが出来まいが、良家に生まれれば相応のポストに就くことが保障されるケースが目立ったのである。現代でいえば「コネ」による縁故入社や出世が約束されていた社会でもあったわけだが、信長は違った。

「完全なる実力主義。信長は生まれも育ちも関係なく、仕事ができるものを幹部として扱いました」と、歴史学者・本郷和人氏は話す。その代表格が木下藤吉郎、つまり後の豊臣秀吉である。一般に「百姓から天下人になった」といわれる秀吉だが、その出自には確かな記録がなく、実際には何もわかっていない。

それは明智光秀も同様だった。従来は、美濃の守護大名であった土岐氏の血筋であり、足利将軍家に仕えていたといわれてきた。だが、異説もある。信長の側近のひとり、太田牛一が光秀のことを「一僕の身(一人の従者を連れていただけ)」と記してもいるように、低身分の人物だったと最近は見られている。

だが、実力主義の信長軍団では過去など関係ない。光秀は信長に召し抱えられるや、すぐに京都の政務や防衛を任されるなど、トントン拍子に出世。並み居る家臣団を押しのけ、わずか3~4年で近江(滋賀県)坂本城の城主にまでのぼった。いかに有能な人物であったかがうかがえるだろう。

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