絶頂の信長をつまずかせた「ビジョン」問題 光秀との確執の背景にもその問題が
前述したように光秀の出自は確かではないが、足利将軍家とのパイプは持っていたのは確かで、信長と足利義昭の仲介役を務めたこともある。また朝廷との交渉役を務め、公家との関係も深かった。当時の教養人だったと言われる光秀の「ビジョン」が旧態依然とした体制に向いたものだとしても不思議ではない。
つまり、信長の「ビジョン」と光秀の「ビジョン」は重なってはいなかったとも考えられるのだ。
入山氏はビジョンを共有することの重要性をこう話す。
「伝説の経営者と呼ばれたジャック・ウェルチは『仕事はできてもビジョンが共有できない人』『仕事を多少失敗したことがあってもビジョンを共有できる人』のどちらかを選ぶとしたら、前者よりも後者にチャンスを与えました。 ジャック・ウェルチは『仕事はできてもビジョンが共有できない人材』は長期的に見たときに組織にとってマイナスであると考えていたのです。極端な例ですが、人生においても仕事においても、『ビジョンの共有』はそれぐらい重要なのかもしれません」
「ビジョン」の共有ができなかったこと。それが本能寺の変のきっかけになったのかもしれない。
信長のビジョンは無駄ではなかった
信長が絶頂期にあった1582年、49歳で死んだことで歴史の歯車は狂い、また大きく揺れ動いた。しかし、その死は決して無駄ではなかった。
「信長の考えていた方法とは異なったかもしれませんが、『天下布武』のビジョンは秀吉が引き継ぎました。そして信長や秀吉に学び、そのビジョンの欠点を補う形で徳川家康が完成させました。信長なくして天下泰平の世の到来はなかったでしょう」と本郷氏は語る。
信長の掲げた「天下布武=ビジョン」。そのビジョンは「本能寺の変」という悲劇を生んだかもしれないが、現代日本に及ぼした影響もまた極めて大きいものだった。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら