絶頂の信長をつまずかせた「ビジョン」問題 光秀との確執の背景にもその問題が
「信長は苛烈な性格だったと思われがちですが、“人間”をとても信用しました。松永久秀や荒木村重が有名ですが、『使える人物』と見るや、裏切られても手を差しのべて許そうとまでしたぐらいです。また部下の使い方も実にうまかった。仕事上で失敗しても必ず挽回の機会を与え、競争させることで能力を延ばし、人材の力による『天下統一』を目指したのです」と本郷氏は語る。
信長が掲げた、天下統一のビジョン
信長は永禄10年(1567年)、岐阜城を攻略した頃から天下統一を意識し、それを世に知らしめるため「天下布武」のキャッチフレーズを用いるようになった。「これはビジネスでいう『ビジョン』にあたるものです。このビジョンを掲げることによって組織全体が目指す方向性をはっきりさせます。それと同時に対立や反発を抑えることにも繋がるのです」と、経営学者・入山章栄氏は分析する。
信長の出現まで「日本を一つにまとめよう」と本気で考える大名は皆無といえた。小田原の北条氏は関東、安芸の毛利氏は中国というように、一地方の覇者がせいぜいだった。上杉謙信も2度の上洛をしているが、それは足利将軍家に忠誠を誓うための行動。その時点では「自分が将軍にとって代わる存在になろう」との意思まではなかったと考えられている。
そうした中で、信長が目標にしたのは「日本列島すべて」だった。ポルトガルから来た宣教師が持ってきた地球儀を見て「地球は丸い」と、素直に認識できた信長だからこその思考だったのかもしれない。
そして信長は当時にあって「経済戦略」を思考できた数少ない人物だった。鉄砲の大量導入や兵制の改革といった軍事面だけでなく、楽市楽座の推進や関所の撤廃など、内政面でも合理的な政策を行なっていく。まさに古い慣習を打ち壊し、新たな慣習を作る革新者だった。
しかし、天下統一が手の届く範囲に迫ると、信長は自らを絶対君主となし、さらに「神格化」し始める。
書状の中で「第六天魔王」と称したり、安土城内に自身の身代わりの石を置いて部下に崇めさせたり、本丸の横の一段下がった場所に天皇を迎える御殿を立てたりするなど、朝廷(幕府よりも上位の存在)を下に見るような動きをとるようになる。既存の慣習にとらわれない、信長らしい行為ともとれるが、そんな行為を繰りかえす信長の「ビジョン=天下布武」に対し、朝廷や幕府と近い立場にあった者は違和感を覚えるだろう。それが光秀だったかもしれない。