世界から「特別扱い」される人が育つ仕組み スタンフォードでは、仕組みを作って合理的に褒める(後編)

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褒めないわけではないが、「褒め」の絶対数が少ない?

とはいえ、アメリカは褒める文化、日本は褒めない文化、という単純化した理解は間違っているかもしれない。思い返せば、日本にいた頃にも、いろいろと褒める工夫をしている人たちはいた。

僕は学部までは日本で、卒業論文で初めて論文を書く経験をした。さっき説明したとおり、論文を書くのは血反吐の出るような作業だ。

著者撮影:博士論文の口頭試問は最後の「褒めイベント」でもある。試問を通過した学生は指導教官たちとシャンパンで乾杯し、その記念写真はラウンジに貼り出される

できたと思った定理の証明が間違っていたり、意味の通る文章を英語で書けなかったり、「実は自分の発見した結果は、全然面白くないのではないか?」とネガティブになってくじけそうになったり、何度も何度も書き直しをしているうちに飽きてきたり、とにかく幾度となく投げ出しそうになった。

幸運だったのは、論文の指導をしてくださった松井彰彦東京大学経済学部教授が力強く「面白い」と言ってくれて、論文を書き上げられるように辛抱強く指導してくださったことだ。おかげでなんとか書き上げることができたが、彼が応援してくれなかったら、まず間違いなく途中で投げ出していただろう。

ちなみに東大の経済学部にはちゃんと「褒める」制度があって、この卒業論文では大内兵衛賞という賞をいただくことができた。

こんなところからも、「日本では人を褒めない」とは、程度問題なのだろうと思う。

ただ、大々的に褒める機会の絶対数はアメリカと比較すればやはり少ないのではないか。そしてこれは、「文化」と片付けてしまうこともできるかもしれないが、実際には制度の問題ではないだろうか。

先生個人の努力に依存しすぎているのでは?

日本の大学では、学生が適切に褒められるかどうかは教員の個人的な努力・負担に依存しているところが大きい、というのが僕の印象だ。

僕はたまたま、指導教官に褒められるという機会に恵まれたけれども、これは指導教官が自発的に努力してやってくれていたからではないかと思っている。

対して、スタンフォードでの経験からは、「褒める仕組み」が大学の制度の中に組み込まれていることを感じる。褒める機会を意識的に設けているのだ。

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